血に染まった神童と、捧げられた少女の心
強くなければ、生き残れない。
優しくなければ、彼女の隣に立つ資格はない。
村の最強戦力を圧倒してもなお、俺の心に安らぎはなかった。
九歳の雨の夜。村を襲った伝説の魔獣「ギガント・フェンリル」。
逃げ惑う人々の中で、俺は迷わず剣を手に取り、土砂降りの闇へと駆け出す。
それが、自分自身の肉体を壊し、一人の少女の運命を永遠に狂わせる選択になるとも知らずに。
「救けて――っ!」
悲鳴に応えた瞬間、俺の中の『須藤涼翔』が吠える。
たとえ骨が砕けようとも、血管が焼き切れようとも。
俺は、彼女を救うためだけの「暴力」へと化身する。
八歳の時。俺の実力を見極めたいと、村の最強戦力である自警団長・オルグから、実戦さながらの手合わせを申し込まれた。
俺は先を潰した『アースニードル』を、牽制として次々と射出する。だが、オルグはそれらすべてを剣一本の最小限の動きで捌ききった。本物の強者は、俺の想像を遥かに超えている。
ならば、と俺は火魔術と水魔術を衝突させ、稽古場に一瞬で濃霧を作り出した。視界を奪い、再びアースニードルを連射して意識を上空へ逸らす。その隙に、俺は魔力を足裏に爆発させ、音もなく懐へ潜り込んだ。
鮮やかな足払い。
体勢を崩した大男の喉元へ、俺は冷たい無機質な瞳で、木刀を突き立てた。
静まり返った稽古場。
直後、オルグの感嘆の声と共に、その場は爆発的な驚嘆と熱気に包まれたが、俺の心は凪いでいた。
(まだだ。これっぽっちの力じゃ……きっと美月は守れない)
――九歳になった、ある雨の夜。
その平穏は、腹の底まで震わせるような魔物の咆哮によって打ち砕かれた。
国の指定魔獣であり、森の主と呼ばれる「ギガント・フェンリル」。その伝説的な魔獣が率いる軍勢が、ベルンシュタイン村へ侵攻してきたのだ。
避難所へと急ぐ村人たちの間で、悲痛な叫びが上がる。
「オルグとハンスたちがまだ来ていない! 逃げ遅れたんだ!」
周囲を見渡すが、そこにセシルの姿もない。
(女の子一人守れずして、世界を守るなんて……そんなこと、できるはずがない!)
世界を、美月を、守るための暴力。その誓いが胸の奥で、爆ぜるように燃え上がる。
「僕なら、助けられるかも! おじさん、この剣借りるね!」
唖然とする自警団員の腰から剣を奪い取り、俺は矢のような速さで土砂降りの雨の中へ飛び出した。
「ゼクス、待て! 戻れ!」
背後で父・バルトロが叫ぶ制止の言葉さえ、今の俺には遠い残響に過ぎなかった。
セシルの家の近くに辿り着いた瞬間、視界に絶望が飛び込んできた。
オルグはボスの巨体に吹き飛ばされ、石壁に深く埋もれている。ハンスは壁を背にして妻のリナとセシルを必死に庇いながら、魔術を放ち続けているが、その顔は絶望に染まっていた。
ギガント・フェンリルが、防戦一方のハンスに向かって、家をも切り裂かんばかりの巨大な爪を振り上げた。
アースニードルで雑魚を掃討しながら突き進むが、物理的な距離が足りない。このままでは――間に合わない!
「救けてーっ!」
セシルの悲鳴が、雨音を切り裂いて響き渡る。
「……リミッター、解除」
心臓を無理やり叩き起こし、残る魔力のすべてを血流に叩き込む。
「フィジカルアップ、四倍!」
ドクン、と視界が真っ赤に染まった。
全身の血管が爆発しそうなほどの、凄まじい過負荷。爆発的な踏み込みで跳躍した瞬間、右足の骨から嫌な音が響き、焼けるような激痛が走る。
(折れたか……。だが、そんなこと今はどうだっていい! せめて今は、俺を運ぶ「棒」としての役割くらいは果たしてくれ!)
右足の筋肉に無理やり魔力を込めて固定し、俺はハンスとボスの間に滑り込んだ。振り下ろされた巨大な爪を、借りた剣の腹に強固な岩の装甲を纏わせ、真っ向から受け止める。
ガガガ、と鈍い衝撃が脳を揺らす。
九歳の細い腕に、数トンはあろうかという魔獣の怪力がのしかかる。ミシミシと骨が軋み、踏ん張った両足が石畳を割って、地面に深くめり込んだ。
「ぁ゙⋯ぁ゙ぁ゙⋯」
全身の毛穴から血が吹き出しそうな圧。それでも俺は、一歩も引かない。
「ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙っ!!」
歯を食いしばり、鼻から熱い血を流しながら、俺はボスの爪を強引に弾き返す。だが、今の激突で右腕の感覚も消失した。
これで決めなければ、次はない。俺は血管を焼き切る覚悟で、ありったけの魔力を大地へ叩き込む。
「突き上げろ……グランドスパイクっ!」
地響きと共に、地面から無数の岩の槍が突き上がり、周囲の魔獣たちを串刺しにしていく。
そしてギガント・フェンリルの喉元や腹部へ、特大サイズの岩の棘が最速で突き上がった。
回避不能の零距離射撃。巨大な岩の棘が無慈悲に魔獣の巨躯を貫き、そのまま天高くへと掲げた。
「はぁっ、はぁっ……」
肩で激しく息をしながら、俺は後ろを振り返った。
「……よかった。間に合った」
そこには、呆然と立ち尽くすハンス夫妻と、恐怖で震えながら、血まみれの俺を見つめるセシルの姿があった。
三人の無事を確認した瞬間、視界の端から真っ暗な闇が侵食してくる。
鼻から滴る血が雨に打たれて薄まっていくのを眺めながら、俺の全魔力は完全に底をつき、意識は深い深い泥の中へと沈んでいった。
第3話をお読みいただきありがとうございます。
九歳にしてリミッターを外し、魔獣を討ち取ったゼクス。
全身血まみれになりながらも「間に合った」と微笑むその姿は、幼いセシルの目にどう映ったのでしょうか。
前世の恋人を想うあまりに自分を顧みないゼクスの危うさと、それを見つめるセシルの視線が、ここから少しずつ色を変えていきます。
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