愛する人よ、俺を憎んでくれ。最愛の聖女に「須藤涼翔」と呼ばれた俺が選んだ、血を吐くような葬送儀礼。
「……須藤涼翔。あなたは、本当は涼翔なんじゃないの?」
静寂を切り裂いたのは、この世界の誰も知らないはずの禁忌の名。
隠し通すと決めた。
彼女の幸せのために、俺という存在を歴史から消すと誓った。
セシルの忠告を脳内で血が出るほど反芻し、完璧な仮面を被っていたはずなのに。
聖女・美月の鋭敏な感性は、一瞬の瞳の揺らぎすら逃さない。
名乗りたい衝動。抱きしめたい熱量。
それらすべてを鋼の理性で圧し潰し、俺は彼女に「最悪の嘘」を贈る。
これは、俺を愛してくれた彼女を救うための、血を吐くような葬送儀礼。
セシルから剥き出しの好意を打ち明けられても、俺たちの表面的な日常は変わらなかった。
相変わらず登校中は腕に抱きつかれ、クラスメイトからは冷やかされ、セシルはそれを否定するどころか嬉々として火に油を注ぐ。
変わったのは、俺自身だ。彼女の挙動がすべて「愛着」から来るものだと自覚してしまった今、その肌の温もりも、甘い石鹸の香りも、毒のように俺の思考を侵食してくる。そしてその様子は、クラスの連中にとって俺たちが「公認の恋人同士」であることになっていて、もはや疑いようのない既成事実となっていたのだと、今更ながらに気づかされた。
そんな奇妙な平穏を置き去りにするように、数日後、王立魔導学院は殺気にも似た熱気に包まれた。
国境付近で活性化した魔獣群を掃討するための「全学年合同遠征」。学生にとっては最高難度の実戦訓練であり、国にとっては精鋭を動員した大規模な軍事行動である。
一学年のゼクスたちは、当然ながら後方支援――物資運搬や陣地防衛の補助部隊に組み込まれている。
だが、出発準備の資材が山積みになり、生徒や騎士たちが慌ただしく行き交う中央廊下で、その「事故」は起きた。
前方から歩いてくるのは、白銀の甲冑を凛々しく纏った第一王子エドワード。そして、その後ろを歩くのは聖女の法衣に身を包んだ美月だ。
避ける間もなかった。ゼクスの隣を歩くセシルが、反射的に彼の腕を強く抱き込み、その胸を押し当てるようにして所有権を誇示する。
「……ゼクスさん。少し、よろしいでしょうか」
すれ違いざま、美月が足を止めた。その声は細く震えていたが、射抜くような強い意志が宿っている。
エドワードが露骨に不機嫌そうな表情を浮かべ、美月の肩を強引に抱き寄せた。
「美月、出発の時間だ。わざわざ一年の生徒を呼び止めてまで、話すことなどないだろう?」
「いいえ。……今、聞かなければ一生後悔する気がするのです」
美月はエドワードの拘束を、静かな、けれど明確な拒絶を込めて振り払った。そして、一歩踏み出し、ゼクスの正面に立つ。
ゼクスは、セシルに叩き込まれた忠告を、脳内で血を流すほど繰り返していた。
(右下を見るな。視線を逸らすな。絶望しても、真っ直ぐ彼女を見ろ――)
「……須藤涼翔。あなたは、本当は涼翔なんじゃないの?」
その名は、この世界の誰も知らないはずの禁忌。
心臓が、肋骨を叩き割らんばかりに跳ねた。セシルの忠告を意識していたはずなのに、あまりに鋭い不意打ちに、ゼクスの瞳が揺れる。その一瞬の揺らぎを、美月の鋭敏な感性が見逃すはずはなかった。確信が彼女の頬を紅潮させ、世界がその名を中心に回り始める。
(……気づかれていたんだ。俺のすべてを、彼女は……!)
名乗りたい。抱きしめたい。お前を助けるために、俺は死んでも君を愛し続け、この世界まで這いつくばって追いかけて来たのだと叫びたい。
だが、その想いをすべて、鋼の理性で圧し潰す。ここで頷けば、彼女は「不義の聖女」となり、その輝かしい未来は閉ざされる。エドワードの瞳に灯る暗く濁った嫉妬の炎が、それを証明していた。
だから⋯⋯ゼクスは決意する。
美月が納得し、そして自分を永久に切り捨てられるような、酷く、冒涜的な嘘を。それは彼女を救うための聖域であり、自分という存在を彼女の記憶から抹消するための、血を吐くような葬送儀礼だった。
「……須藤涼翔」
ゼクスは、あえて美月の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、その名をなぞるように呟いた。逸らしたい衝動を力でねじ伏せ、一滴の揺らぎも残さない冷徹な仮面を被る。
「わかった。……本当のことを話すよ。今から少し、時間は取れるかな?」
その言葉に、廊下の空気が凍りついた。隣で腕を掴んでいたセシルが、嘘のように力なく手を離す。彼女の水色の瞳には、信じていた世界が崩壊していくような絶望の色が灯っていた。「行かないで」と叫びたかった彼女の喉は、ゼクスの放つあまりに冷たい決別の気配に、凍りついたように動かない。
「誰にも聞かれない場所で話したい。もちろん、婚約者殿も心配でしょうから、今から話す話を他言しないと約束していただけるなら、エドワード様がご一緒でも構いません」
ゼクスの声には、もはや迷いも熱もなかった。
彼はそっとセシルの頭に手を置き、「大丈夫だ」とだけ小さく耳打ちした。その手は、かつてないほど冷たく、けれど確かな決別に満ちていた。
ついに、美月が「箱」を開けてしまいました。
15年間、どれほど姿を変え、名前を変え、気配を殺していても、彼女だけは「彼」を見つけ出してしまう。この残酷なまでの純愛が、皮肉にもゼクスを窮地へと追い込みます。
今ここで認めれば、美月は不義の聖女となり、積み上げたすべてを失う。
それを理解しているからこそ、ゼクスはあえて彼女の瞳を真っ直ぐに見据え、正体を知る者しか吐けない「冒涜的な嘘」を選びました。
一方で、隣で手を離してしまったセシルの絶望もまた、計り知れません。
「大丈夫だ」というゼクスの囁きは、果たして彼女に届いているのか。
それとも、信じていた世界が崩壊する音にかき消されてしまったのか。
逃げ場のない中央廊下で、三人の運命が決定的に壊れ、そして再構築されていく。
嘘と真実が混ざり合う、この「対話」の結末を、ぜひ【評価】や【ブックマーク】で見届けてください。




