絶望をゼロにする弾丸、届かぬ聖女の
冷たい風が吹き抜ける未開の森を抜けて、ほどなく北へ進むこと数時間。
凍えるような景色の向こうに、寒冷地ならではの頑強な造りをした、見たこともない大きな街のシルエットが見えてきた。
だが、その上空には、不穏な黒煙が何条も立ち上っている。
「……様子がおかしいわね」
エレノアが馬の速度を落とさずに鋭く呟いた。
街の東側──そこでは、着の身着のままで、命からがら逃げ惑う大勢の人々の姿があった。
そして彼らを執拗に追いかけ、容赦なく襲いかかっているのは、人間ではない異形の者たち。
血の通わないような不気味な青色の皮膚。
額から天を突くように、狂おしく生え伸びた鋭い角。
現地の自警団とおぼしき人々が、必死に剣と盾を構え、あるいは魔術を放って応戦しているが、魔族の頑強な肉体と禍々しい魔術の前に、防衛線は今にも崩壊しようとしていた。
「ウガガゴゴゲ!!」
獣じみた咆哮を上げながら、青い肌の怪物が自警団の男を殴り飛ばす。凄まじい鮮血が舞った。
(このままじゃ、間に合わない……! 遠すぎる!)
ここから戦場までは、まだ気が遠くなるほどの距離がある。馬の全速力でも、辿り着く頃にはあの自警団も、逃げ惑う人々も、すべて肉塊に変えられているだろう。
初めて目にする未知の脅威。しかし、その凄惨な光景を前に、ゼクスの瞳には一切の躊躇いもなく、鋭い闘志が宿った。
「馬を、頼む!」
ゼクスは叫ぶと同時に、セシルの身体をしっかりと抱きかかえ、馬の背から蹴り出すように跳躍した。
「セシル。頼めるか?」
「うん!」
ゼクスの胸の中で、セシルは力強く頷いた。スーちゃんに抱かれたまま、その小さな両手に淡い光を灯し、即座に治癒を開始する。
次の瞬間、ドン!と大気を踏み抜く凄まじい衝撃波を残し、ゼクスは音速のような速度で大地を駆け抜けた。
鍛え上げられた肉体に、さらにフィジカルアップで四倍にまで跳ね上げた加速。
一瞬。たった一瞬で、ゼクスはセシルを抱えたまま、戦場までの絶望的な距離をゼロにした。
遥か後方。全速力で馬を走らせながら、その光景を眺めていたエレノアが、引きつった声を漏らす。
「……やっぱり、あの速度、何回見ても異次元よね。むしろ速くなってない?未知の敵が相手でも、容赦なさすぎるわよ」
(……速すぎる。あんなの、目で追うことすらできない……)
美月は、一瞬で彼方の戦場へと駆けつけ、自身の目の前から完全に消え去ったゼクスを、ただ呆然と眺めることしかできなかった。
あの速度で走ることなど、今の美月には不可能な芸当、せいぜいこの軍馬より少し早いくらいだ。
世界がどれほど危機に瀕しようとも、自分にはあの戦場に今すぐ駆けつける力すらない。その残酷なまでの足切りの壁が、美月の胸に重くのしかかる。
弾丸と化した速度を維持したまま、ゼクスは通りすがり、襲いかかる魔族の頭部へ向けて、超高圧の『アクアプレッシャー』を正確無比に打ち込んでいく。
凄まじい速度の水流が、青い怪物の肉体を次々と撃ち抜き、動かぬ塊へと変えていく。
瞬きをする暇すらなく、ゼクスは自警団と魔族たちの間に、文字通りの壁として立ち塞がった。
戦場に降り立ったゼクスは、鋭い視線で異形の者がやってきた東の方角を見やった。
そこには、すでに事切れて息のない街の人々、そして、血を流して今にも息を引き取りそうな負傷者が無数にいた。
「セシル、治療を頼む」
「まかせて、スーちゃん!」
ゼクスが静かに告げると、セシルはすぐに腕から飛び降り、負傷者たちのもとへと駆け寄って奇跡を広げていく。
セシルに一切の牙を向けさせまいと、ゼクスは彼女の周囲を固めるように動きながら、街の人々に襲いかかる異形の者をウィンドセンスで冷静に捕捉。その頑強な肉体を容赦なく、そして寸分の狂いもなく正確に穿ち、抉り、屠っていった。
ゼクスが圧倒的な暴力で敵を排除し、その安全な檻の中で、セシルが慈愛の魔術を惜しみなく注ぎ込む。息を呑むほどに噛み合った二人の共闘は、まるで最初から完成されていた絵画のようだった。
──ドサリ、と西側の街の方から挟み込むようにして襲いかかっていた最後の魔族が崩れ落ちる。
「……っ! 涼翔……っ!」
馬を全力で走らせ、美月たちがようやく現場に到着したときに、目の前に広がっていたのは、すでに完全に殲滅され、静まり返った異形の者の山。
そして、人々を守るように立っていたゼクスの背中だった。
(……追いつけない。あんなの、最初から見えてすら、いない……)
魔術の技術だけでなく、その圧倒的な戦闘速度すらも。
自分で治癒ができない欠点をセシルが支え、彼はこの「四倍」の神速を自分のものにし、こうして戦い続けてきたのだ。
未知の土地、未知の化け物が相手だろうと、彼らはもう、自分の手の届かない領域で完結している。
美月は、助けに入ろうと構えかけた手を、ただ力なく下ろすしかなかった。
(私、何のためにここまでついてきたの……?)
自分の魔術も、自分の存在も、彼らにとっては必要ですらない。
そんな突きつけられた現実の中で、治療を終えたセシルが、ゼクスの隣にぴったりと寄り添いながら、美月の方を振り返った。
「当然でしょ?」とでも言いたげな、誇らしげな笑み。その瞳は、言葉以上に冷酷に、完璧に美月を「ただの無力な観客」として見下していた。
美月がどれほどかつての思い出を縋ろうとも、今ゼクスの隣で彼の背中を預かっているのは、この自分なのだと無言で証明するように。
「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます……っ!」
静寂の中、救われた自警団の男たちと街の人々が、血にまみれたまま次々とゼクスの前に膝をつき、涙を流して何度も何度も頭を下げた。絶望の淵で現れた、謎の救世主。
感謝の言葉が響き渡る戦場で、ゼクスは静かに息を整えながら、黒煙の上がる未知の街を見つめるのだった。




