遥かなる背中、届かぬ魔術
道中、四六時中ゼクスにぴったりと寄り添うセシルの姿を、美月はただ見せつけられ続けるしかなかった。
生々しい首筋の痕。
胸が締め付けられるほど甘ったるい、二人の空気。
そのすべてが美月の心を容赦なく抉っていく。
それでも、美月は耐えた。
ただの同行者として、これ以上余計な波風を立てないよう静かに振る舞う。
息を潜め、牙を隠して、ひたすらに機会を待つ。
すべては、もう一度だけゼクスと二人きりになり、彼の本当の気持ちを確かめるチャンスを得るためだけに。
──けれど、その隙は、ついに一度として訪れなかった。
セシルの冷徹なまでの警戒網と、ゼクス自身の頑なな距離感に阻まれたまま、数日間の過酷な野営を経て、一行はついに目的の地──北の断崖絶壁へとたどり着く。
「……なるほどな。これは確かに、普通の方法じゃ越えられないな」
天を突くようにそびえ立つ巨大な山肌を見上げ、ゼクスはどこか楽しげに苦笑した。
人の立ち入りを拒む、圧倒的な自然の障壁。だが、ゼクスの瞳に諦めの色は微塵もない。
「どれぐらいの長さがあるか分からないけど、やってみるしかないな」
ゼクスはそう呟くと、手綱を握り直して軍馬を力強く一歩前へと進めた。
絶壁へと向かって一気に駆けだし、前方の巨大な山肌に向けて、何のためらいもなく魔術を放つ。
ゼクスの放った、超高密度に圧縮された『アースニードル』が、鼓膜を震わせる凄まじい轟音と共に、風魔術で回転しながら山肌へと突き刺さる。
硬質な岩盤を、正面から容赦なく、凄まじい勢いで穿ち抜いていった。
一瞬にして目の前に出現した、暗黒の空洞。
その闇に飛び込んだ刹那、ゼクスは息つく暇もなく炎魔術を展開し、周囲に明かりを灯す。さらにそれと同時に、今度は土魔術を行使した。
アースニードルが乱暴に抉り、今にも崩落しかける天井や周囲の土砂──それを、馬で通り抜けるわずか一瞬の間に、ガチガチの頑丈な岩盤で瞬時に固める。完璧な強度を誇るトンネルへと造り変えていった。
(ゼクスが掘った穴を見たことはあったけど……まさか、リアルタイムでこんな方法でどんどん掘り進めていくなんて……。あの子、やっぱり頭のネジが数本飛び過ぎよ……!)
目の前で繰り広げられる、およそ人間の枠を超えた異様な光景に、エレノアは目眩を覚えながら必死に後を追っていた。
ゼクスはウィンドセンスを行使して正確に崩れないように探りながら、馬を走らせ、前方へはアースニードルを放ち続け、頭上には明かりを灯し、同時に周囲の岩盤を固定していく。
(ウィンドセンスを維持しながら、これだけの魔術を同時に使うなんて……)
エレノアの背にすがりつきながら、美月は前を行くゼクスの強大な背中をじっと見つめていた。
(前に、教えてもらったのに。私にはどうしても使えなかったのに……)
彼が優しく微笑みながら「こうやるんだよ」と教えてくれた魔術。
自分にはそこまでの魔術制御ができなくて、習得できなかったあの魔術を、彼は息をするように平然と使いこなしながら、他にもこんなに緻密な魔術を行使する。
その絶対に追いつくことのできない、遥か遠くにいる背中が、美月の瞳を痛いほどに焦がした。
やがて、暗闇のトンネルの向こうに、一筋の白い光が見えた。
勢いよく飛び出した先。そこは、これまでのエルメリア王国とは全く異なる、寒々とした未開の大地だった。
「……ふえ、ちょっと寒いね、スーちゃん」
ゼクスの胸の中で、セシルが身をすくめながら小さく身震いをした。
「そうだな。想定より冷える。途中で魔獣でも見つけたら、毛皮でも調達して防寒着を作らないとな」
「えー、魔獣の毛皮? かわいくないー」
ゼクスが優しく微笑むと、セシルは不満げに頬を膨らませてみせる。
そんな、どこまでも呑気で、互いへの絶対的な信頼が滲み出る仲のいい二人を、美月はただ、無言で見つめ続けるしかなかった。
二人の間に流れる、誰も入れない、入ることすら許されない完成された世界。それを見せつけられるたび、美月の心はギリギリと音をたてる。
(私の場所だったのに……彼の腕の中も、あの優しい声音も、全部、私が向けられていたはずのものなのに……)
かつて自分が隣にいて、自分が向けられていたはずの、あの温かい眼差し。すべてが別の女に塗り替えられてしまった現実が、美月の胸に冷たく突き刺さる。
「こんな……こんな地が、本当にあったなんて……」
繰り広げられる地獄の空気から逃れるように、エレノアが眼前に広がる光景を見つめてぽつりと呟いた。歴史の裏に隠されていた、未知の北の大地。
ゼクスは馬から降りると、今しがた自分たちが通り抜けてきた出口を振り返った。
そして、こっち側の存在を隠匿し、容易に侵入できないようにするため、土魔術を展開し周囲の崖と同化するように完璧なカモフラージュを施して、出口を完全に覆い尽くす。
「よし、これで大丈夫なはずだ。そう簡単には見つからない」
ゼクスは満足そうに頷くと、再び馬へと跨った。
「──それじゃあ、行こう。ここからが本当の調査だ」
セシルは、ゼクスに抱かれながら、そっと後ろの美月を盗み見た。
自分たちのイチャつきとゼクスの圧倒的な実力差に挟まれ、今にも擦り切れそうなほど絶望を隠せない泥棒猫の顔。それがセシルにとっては、どんな高級な蜜よりも甘美に感じられた。
(そう。スーちゃんはもう、あなたなんか見ていない。この世界を救うのも、私を守るのも、全部スーちゃん一人でできるの。あなたはただ、元の世界に送り返されるのを待ってればいいの──)
ひんやりとした冷たい風が吹き抜ける中、一行はさらに未知の北へと向かって、静かに調査を開始するのだった。




