首筋の刻印、引導を渡す甘い囁き
翌朝、カーテンの隙間から朝陽が差し込むベッドの中で、セシルはゆっくりと目を覚ました。
隣には、まだ穏やかな寝息を立てている愛しいスーちゃんの姿。
(……今日から、あの泥棒猫と一緒に行かないといけないなんて)
そう思った瞬間、セシルの胸の奥に、じわりと黒い不快感が広がっていく。
あの泥棒猫が、旅の道中で少しでもスーちゃんに色目を使うかもしれない。そんなの、絶対に許せない。
セシルは、隣で眠る愛しい彼が絶対に自分だけのものだと、あの女に思い知らせてあげるための『印』が必要だと本能で理解した。
すう、とゼクスの首筋に顔を寄せ、その無防備な肌に、じっくりと、痕が残るほど深く唇を押し付ける。
(これを見たら、あの女はどんな顔をするかな──)
ゼクスが微かに身じろぎをして目を覚ます頃には、セシルはどこまでも無垢な、愛らしい少女の笑顔に戻って「おはよう、スーちゃん」と微笑むのだった。
──────
身支度を整え、昨日準備した必要最低限の荷物を手に出発する。
ひんやりとした朝の空気が満ちる城門前には、既に美月とエレノア、そして今回の強行軍のために用意された二頭の軍馬が待機していた。
「おはようございます。お待たせしました」
ゼクスがいつもと変わらない落ち着いた声で声をかける。
それに答えたのはエレノアだった。
「おはよう。私たちも今、準備ができたと……ころ、よ……」
挨拶の途中で、エレノアの言葉が不自然に止まった。その冷徹な瞳が、ゼクスの衣服の隙間から覗く、生々しい赤黒い痕跡に釘付けになる。
(えぇー……嘘でしょ? 首筋にこれみよがしにキスマークつけちゃって。セシルってば、ほんとに……っ!)
エレノアは内心で激しくのけぞりながら、ハッとなって横に立つ美月を見た。
案の定、美月はその首筋を、親の仇でも見るかのように苦々しげに見つめていた。その瞳からは、みるみるうちに生気が失われていく。
「おは、よう……」
(わかってる。わかってるよ。そんなこと……。二人が、もうそういう関係だってことくらい……!)
一晩中泣き明かした美月の心に、容赦なく楔が打ち込まれる。
「どうかしたか?」
自分の首筋にある凶悪な凶器にまったく気づいていないゼクスが、不思議そうに首を傾げた。
大真面目に心配そうなその何も知らない顔のすぐ隣で、セシルは満足げに、冷酷な光を孕んだ瞳で美月をまっすぐに射抜いている。
「な、なんでもないわ。さぁ、時間が惜しいもの、いきましょう」
これ以上この場を硬直させるわけにはいかないと、エレノアは無理やり話を前に進めた。だが、その胸中は悲鳴を上げている。
(はぁ……先が思いやられるわ。本当にこのメンバーで北まで行くの? 私の胃、最後まで持つかしら……)
ゼクスはあてがわれた一頭の馬の手綱を引くと、当然のように、セシルを自分の前の位置に乗せようと促した。
「美月様、私の後ろに乗っていただけますか?」
エレノアがもう一頭の馬の手綱を握りながら、優しく声をかける。
「ええ……構いません、っ……」
どこか上の空で、力なく消え入りそうな声で答える美月。
そのあからさまに衰弱した様子に、ゼクスは思わず眉をひそめた。
これから向かうのは、危険な未知の領域だ。
大真面目に彼女の身を案じるからこそ、そんなおぼつかない状態で馬に乗せるのは危ないと思ったのだ。
「美月、元気がないけど、大丈夫か? あ、もしかして、せ───」
男としての不器用な気遣いで、その可能性を口にしようとした、その瞬間だった。
「スーちゃん、ストップ! 女の子にそういうことを直接聞くのはダメだよ?」
セシルがクスクスと嬉しそうに笑いながら、ゼクスの腕をきゅっと引っ張って、可愛らしく注意した。
そして、推して量ろうとしたゼクスの言葉を、一瞬で最悪の刃へと変えてみせる。
美月の方を振り返り、セシルは急にぽっと両頬を林檎のように染めてみせた。
「……あ、でもね? 私の心配なら大丈夫。実はね……あの日から、毎月ちゃんときてたはずのものが、少し遅れてて……。だから私、もしかして……って、今すっごくドキドキしてるの」
それは、イタズラな笑みを浮かべながらも、一切の揺らぎがない響きだった。
大好きなスーちゃんと愛し合い、その結晶をその身体に宿しているかもしれないという、絶対的な幸福感と誇り。生々しい温度が、そこには確かにあった。
ゼクスの死角で、セシルの瞳がギラリと三日月のように歪む。
(ねぇ、ちゃんと聞いてた?これで、引導をわたせたかな? わかったらただの同行者として惨めに指でもくわえて、おとなしくしててね?)
「そ、そっか。……とりあえず、馬に乗ろうか」
朝っぱらから、美月の前でまさかそんな決定的な事実を口にされるとは思っていなかったゼクスは、耳まで真っ赤にして慌てて手綱を握り直した。
これ以上その話題を掘り下げられないようにするための、あからさまな逃避の態度。
だが、そのゼクスの「本気で動揺し、肯定するように逃げたリアクション」こそが、美月にとっては世界が完全に裏返るほどの決定打だった。
(嘘……うそでしょ……? 涼翔が否定しないってことは、本当に、赤ちゃんが……っ?)
思考が、止まる。
ドス黒い絶望が、美月の視界を完全に塗りつぶしていく。
気のせいなんかじゃない。
涼翔の心も、体も。そしてこれから生まれてくる未来までも。
もう、すべてがあの女のもの。
美月は頭の芯がバラバラに砕け散るような衝撃のなか、這うようにしてエレノアの背の後に跨るしかなかった。
(うわー……セシル、それガチなやつじゃない。ほんとにドロドロっていうか、もう勝負ついてるわよ……。神様お願い、私をこの馬から降ろして……)
すべてを察しているエレノアは、背中に伝わる美月の凍りついたような震えを感じながら、内心で全力で胃を押さえていた。
「──出発するわよ」
エレノアが逃げるように鋭く手綱を引く。
それぞれの重すぎる現実と、限界突破した地獄の空気を乗せた二頭の軍馬が、朝陽を浴びながら、冷徹な北の大地に向けて一気に走り出すのだった──。




