不器用な優しさの代償、睨みつける聖女
「──これが事実だと、百パーセント断定されたわけではない。……ではない、が」
重苦しい沈黙を破ったのは、国王の低く、地を這うような声だった。
その顔には、一国の長としての冷徹な算盤と、未知の脅威に対する剥き出しの焦燥が浮かんでいる。
「帝国との和平、環境、そして同盟。これは一刻の猶予も残されておらん。急ぎ結ばねばならんな……」
手記が示した真実──北の断崖絶壁の向こうから迫る「魔族」という大いなる危機。それが本物であるならば、人類同士で泥沼の小競り合いを演じている場合ではなかった。
張り詰めた謁見の間。
だが、その国家規模の緊張感の中で、帝国の使者であるイレイアだけは、完全に別の「戦層」に目を奪われていた。
彼女の鋭い視線が、完璧な聖女の微笑みを浮かべたまま手記を抱えるセシルと、その足元で過呼吸気味に涙をボロボロと零している美月を行き来する。
(……待って。これって、もしかして……?)
イレイアの脳内で、バラバラだったパズルのピースが急速に組み合わさっていく。
(もしかして、美月様がゼクス殿に擦り寄るのを、完璧に、かつ永久に防ぐために仕組まれたセシル殿の『牽制』……? え、嘘でしょ、こんな国家規模の歴史書まで引っ張り出して? 美月様、完全に心折られてボロ泣きしてるじゃない……。もしかして、すっごいドロドロなの? なにこれ……めちゃくちゃ面白そうなんだけど!)
不謹慎な興奮に身を震わせるイレイアの斜め後ろで、王国魔術師団副長エレノアもまた、細い息を吐き出していた。
エレノアの冷徹な瞳は、セシルの思惑を完全に看破している。
(……これで決まり、ね。完璧なセシルの勝ちだわ)
ゼクスという至高の存在を巡る、女の命懸けの奪い合い。その結末を見届けながら、エレノアは内心で深い苦笑を漏らさずにはいられなかった。
(世界の存亡がかかっているかもしれないっていう緊迫した大舞台で、この子たちは一体何をやっているのよ……)
そんな女性陣の密かな思惑など露知らず、国王は前を向けたまま、イレイアに対して厳かに告げた。
「イレイア殿。……急で申し訳ないが、我が王国の使者と親書を、大至急帝国へ届けてはくれまいか? 我が王国もまた、帝国の提案する和平と同盟に全面的に賛同する、という旨を記した親書だ」
「──っ。は、はい! 謹んで、承知いたしました」
イレイアは一瞬で帝国の将としての顔に戻り、深く一礼した。
そのやり取りが遠くで響くなか、美月は真っ白になった頭の芯で、ドス黒い感情の渦に呑み込まれていた。
今までのセシルではありえなかった、涼翔のそばを離れてまで取りに行った「忘れ物」。そしてその後に持ち出してきた、あの手記。それに付随するように現れた、帝国の歴史書。
(……そう、いうことだったんだ)
涙に濡れた美月の瞳に、激しい怨嗟の光が宿る。
(セシルの忘れ物って、この本のことだったんだ……。あらかじめ帝国の歴史書を一度読ませておいて、その信憑性の無さを補う形で、あの手記を読ませるように仕向けたんだ……。全部、最初から仕組まれていたんだ。セシルが、あの女が……。それとも涼翔、あなたもなの? そんなに、そんなに私を元の世界へ返したいの……!?)
ギロリ、と。
美月は床に膝をついたまま、殺意すら混じった視線でゼクスを強く睨みつけた。
ゼクスはその痛いほどの視線を、逸らすことなく、真っ向から受け止めた。
(恨まれながら、酷い男だったと思われたほうが、美月は俺を忘れて前に進めるかもしれない。けど⋯⋯)
美月の瞳の奥に広がる、ひどい誤解と絶望。
かつて自分が彼女を傷つけ、背を向けた代償を今ここで支払うかのように、ゼクスはわずかに目を伏せる。そして、隣にいる美月にだけ聞こえるほどの、消え入りそうな、けれど確かな声で囁いた。
「……ごめん、美月。でも、君は必ず、無事に元の世界へ返すから」
その不器用な優しさは、美月の心をさらに残酷に抉った。
「それが君に……今の俺がしてあげられる、唯一のことなんだ」
(やっぱり、あなたはここに残るんだ……。私たちはもう、絶対に一緒にいられないんだ……)
その時だった。
「そんなこと……っ、たとえ今から魔族が来るとしても、放っておけばよかろう!!」
狂ったような怒号が、謁見の間を震わせた。
エドワードだった。彼は怒りに顔を真っ赤に染め、見苦しく拳を握りしめている。
「あの断崖絶壁は天険の要塞だ! 人が立ち入れぬほどの山を越えてまで、我が国にわざわざ侵攻してくることなどあり得ん! 調査も同盟も不要だ! こんな茶番に、いちいち付き合ってられるかっ!!」
それは、世界でただ一人、美月が「聖女」としてこの世界に残る未来だけを望んでいた男の、最後の悪あがきだった。
魔王が、魔族がいなくなってしまえば、美月をこの世界に引き留める大義名分が失われてしまう。
だからこそ、彼は世界の危機から目を背けようと叫び続ける。
(エドワード様……)
美月は、醜く吠えるエドワードを、どこか冷めた目で見つめていた。
彼がなぜそこまで頑なに調査を拒むのか、今の美月にはよく分かっていた。
(そんなに私を、帰したくないんだ……。人々を犠牲にしてまで……でも、そんなの私はいやだ……)
「……黙れ、愚か者がッ!!」
玉座から放たれた国王の、凄まじい覇気を孕んだ一喝がエドワードの言葉をへし折った──父としてではなく、一国の王として、断じて許せなかった。
国王は立ち上がり、我が子を射殺さんばかりの鋭い眼光で見下ろす。
「大いなる人類の危機を前にして、己の私情を、己の女を何よりも優先するようなその思考、その発言……! 王族として、断じてあるまじきことじゃ!!」
「……っ」
父親の、そして「国王」としての絶対的な威圧に、エドワードは一瞬で顔を青ざめさせ、ガタガタと膝を震わせた。もはや、反論する言葉など一言も残されていなかった。
「……父上、……申し訳、ありませんでした……」
エドワードは力なく項垂れ、絞り出すように謝罪の言葉を口にした。その姿は、完全に権威を失墜させた哀れな敗北者のそれだった。
その様子を冷ややかに見届けた国王は、小さく頷き、一つ、大きく咳払いをして場の空気を切り替えた。
「では、帝国へこちらから送る正式な使者は、ライオネルとする」
思慮深い第二王子ライオネルの名が挙げられ、同盟への本気度が示される。そして、国王の視線が、最後に最も信頼を寄せる若き傑物へと向けられた。
「──そして、北の大地への緊急調査。ゼクスよ。……可能か?」
謁見の間中の視線が、ゼクスへと集まる。美月の怨嗟の視線も、セシルの愉悦に満ちた視線も、すべてをその背に受けながら、ゼクスはただ静かに、迷いのない足取りで一歩前へ出た。
独立した一人の男として、胸に手を当て、深く、凛とした声で頭を垂れる。
「──はい。お任せください、陛下」
ゼクスはただ、前を見る。世界中の人々を守るために。美月を、無事に元の世界へ帰すために。




