世界の理、治癒の継承
「──『北の山の向こうから来た者たちの話を、王国の偉い人たちは、最初、誰も信じようとはしなかった。けど、私は信じた。なぜなら、私が死んでこの世界へ来るとき、女神様から直接言われた言葉があったから』
『やがてこの世界を襲う大いなる危機を、彼と一緒に守りなさいと。私は、私を大好きな人のもとへ送り届けてくれた女神様の恩に報いるためにも、私と同じぐらい強くなったしんちゃんと共に、その戦いへ向かうことを決意した』」
そこまで読み進めると、セシルはふっと朗読を止め、顔を上げて謁見の間を見渡した。その視線が、獲物をいたぶる蛇のように美月を捉える。
「……あ、手記の記述はここで一度途切れていて、次のページからは、おそらく戦いのあとに書かれたもののようです。……たぶん、ご先祖様は戦場にまでこの手記を持っていってはいなかったみたいですね。だから、ここからは──一気に、このお話の『核心』が綴られています」
セシルのあざといほどに丁寧な前置き。
その言葉に、美月の細い身体が、ビクッと大きな戦慄に跳ね上がった。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち、全身の毛穴から冷や汗が吹き出す。
隣に立つゼクスは、ただ前を見据えたまま、これから語られるであろう「世界の真実」──自分が薄々予想していた、最悪の未来の証明を、静かに受け入れようと全身を強張らせていた。
静寂が広間を支配する。セシルの細い指がページをめくり、冷酷なまでに美しい声が、手記の「続き」を紡ぎ始めた。
「『──なんで! どうして! あんまりだよ、酷すぎるよ……っ』」
突然、セシルの口から漏れた、狂おしい悲鳴のような言葉。
けれどセシルはすぐに、ふふ、と困ったように微笑んで手記から顔を上げた。
「……ちょっと、ご先祖様は錯乱して書いちゃったみたいですね。文字がすごく乱暴で……。でも、読みますね?」
その不穏な言葉に、美月は何が起こるのかを本能的に察知し、心臓が冷たく凍りついていく。
「『──魔族を倒した。私たちはついに、すべての元凶である三本の角がある魔王を倒した。……なのに! どうして……っ!? 魔王を討ち倒した、ほんの数時間後。しんちゃんの身体が、突然、眩い光に包まれた。私が伸ばした手は空を切った。しんちゃんは……そのまま、光の中に消えてしまった……』」
「……っ」
美月の喉から、掠れた声が漏れた。
「『ねぇ、どうして? どうして女神様は、こんなに酷いことをするの!? 私を、私を元の世界に帰してよ……!! 一緒に世界を救ったじゃない! なんでしんちゃんだけが消えて、私はここに置いていかれるの!? 女神様、あんまりだよ……っ!』」
セシルの可憐な声が、過去の少女の、血を吐くような慟哭となって広間に響き渡る。
それは、世界を救った「英雄」の、あまりにも惨めな悲劇の記録だった。
「『周囲の人たちは、魔王を倒した私を「英雄」だと称えて、お祭り騒ぎでひざまずいていた。けれど、そんなもの何の意味もない! しんちゃんがいない世界なんて、私は一ミリだって欲しくない!! なんで! なんで! なんで……っ!!』」
なんで──その三連続の叫びが、美月の脳内で爆音となってリフレインした。
理解してしまった。
魔王を倒せば、異界の者は元の世界に帰れる。
あの歴史書に記されていた記述は、正史として完全に正しかったのだ。けれど、抜け落ちていた事実。
誰にも知らされていなかった転生者の存在。
肉体ごと召喚された「転移者」は、役目を終えれば元の世界へ強制的に帰還させられる。だが、魂だけでこちらの世界の肉体に宿った「転生者」は──どれだけ泣き叫ぼうが、もう二度と、元の世界には帰れない。
それはすなわち、自分たちが魔王を倒して役目を終えた瞬間──「転移者」である私だけが光に包まれて元の世界へ消え去り、「転生者」である涼翔は、この異世界に、一生取り残されるという、確定した「未来の処刑宣告」に他ならなかった。
(嘘……嘘でしょ? 涼翔は……私を帰すためだけに戦って、自分はここに残る気なの……!?)
頭の芯が真っ白に火花を散らし、美月の世界がガラガラと音を立てて崩壊していく。
「そんなの……っ、嘘に決まっている! 何が手記だ!ただの作り話に決まっている!!」
静寂を切り裂き、エドワードが狂ったような怒号を上げた。
だが、その叫びを受け止める国王は、ただ冷ややかに、哀れみすら含んだ目で愛息を見据えている。その無言の視線こそが、この手記が恐るべき「真実」であることの何よりの証明だった。
美月は頭を抱え、床に崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。
視界が涙で歪み、心臓が爆発しそうなほど激しく脈打つ。
何のために自分はここまで頑張ってきたのか。
二人が再び引き裂かれる未来しか待っていないというのか。
そんな美月の絶望を余すことなく観察しながら、セシルの朗読は、静かにその先の「奇跡」へと進んでいく。
セシルの唇の端が、誰にも気づかれないほど微かに、歪んだ愉悦に吊り上がる。
(あはは、いい気味だわ泥棒猫。あなたがどんなにスーちゃんにすり寄ろうとしても、世界そのものがあなたたちを引き裂く。スーちゃんは私のもの。あなたは、一人で寂しく元の世界へ消え失せるしかないの……!)
脳内で極上の勝利宣言を唱えながら、セシルはどこまでも無垢な声で次のページを読み進めていく。
「『──しばらくの間、私はただの抜け殻のようになって、絶望に打ちひしがれた。ある日、私は自分のお腹の中に、小さな小さな新しい命が宿っているのを感じた。……しんちゃんとの、赤ちゃん。あの日、私たちが愛し合った証。私は、私の大好きな人の忘れ形見を、どうしてもこの手で産みたいと思った。そのお腹の赤ちゃんだけが、絶望のどん底にいた私の、唯一の生きる希望になった』」
謁見の間の空気が、一瞬にして厳かなものへと変わる。
「『……赤ちゃんが生まれた。元気な、とっても元気な男の子。名前は「ヒカル」にした。しんちゃんが、あっちの世界で昔、よく観ていた大好きなアニメから取った名前。──そのヒカルが、ある日、私の指についていた小さな切り傷を、無意識に、小さな手で触れて癒してくれた。……この子は、治癒の魔術が使えるんだ。しんちゃんの魂の欠片が宿ったのかもしれない……しんちゃんの力が、この子に受け継がれているんだって、私は涙が止まらなかった』」
──治癒の魔術の継承。
その言葉に、国王も大臣も、言葉を失って手記を凝視した。セシルが持つ「治癒の力」の源流が、今、解き明かされた。
ならば、この手記が語っている事実は、本物なのだ。
「『けど、私は同時に恐ろしくなった。もしこの子の力が国に知られたら、今度は私の息子が、都合のいい「道具」として戦争や政治に利用されてしまう。だから私は、王国のすべての地位と名誉を捨てて、故郷の田舎の村へ、ひそかに二人で帰ることを決めた』
『突然、赤ちゃんだけを連れて帰ってきた私に、村の両親はめちゃくちゃにびっくりして、最初は激しく怒った。けど、二人きりになったときに、これが私と一緒に世界を救って消えた、シンイチローとの子供なのだとすべてを話したら、両親はそれ以上何も聞かず、私たちを優しく温かく迎え入れてくれた』」
セシルの声は、どこか誇らしげにすら聞こえる。
「『王国ではきっと、行方を眩ませた私のことを必死に探しているに違いない。けど、まさか英雄マルルが、こんな世界の果てのような辺境の小村の出身だなんて、王国の誰も思いもしなかったみたい。村は閉鎖的だったし、好都合なことに、村の誰も私が世界を救った英雄だなんて気づいていなかった』
『その後も、成長するにつれて、ヒカルは時々、無意識に治癒の魔術を使ってしまうことがあった。けど、事情を知る私の両親は、私の考えに全面的に同意してくれて、この子の「治癒」の力が外部に絶対にバレないように、いつも優しく、全力で協力してくれた。──私としんちゃんの、大切な宝物を守るために』」
パサリ、と。
セシルはゆっくりと手記を閉じた。
手記はまだ、先のページへと続いている。けれど、セシルはこれ以上のない「一区切り」を迎えたと言わんばかりに、あえて本を閉じてみせたのだ。
それは、一人の転生者の執念の愛が、静かに辺境の地で受け継がれたという、あまりにも美しく、切ない物語。
そして同時に、「転生者はこの世界に縛られる」という冷徹な事実を、美月の心に永遠に刻み込むための、セシルの完璧な勝利の儀式でもあった。
手記が閉じられた現在の謁見の間には──ただ、絶望のあまり俯き黙ってしまったエドワードと、呼吸の仕方を忘れた美月の、狂おしいまでの沈黙だけが、重く、重くのしかかっていた──。
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次話より新章へ突入します。
また明日。魂の果て編
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一斗




