聖女の婚約と、壊れた十五年。――絶望の底で俺を抱きしめたのは、幼馴染の腕だった
十五年。
言葉も通じない赤ん坊の頃から、俺はこの日のために生きてきた。
血を吐くような特訓も、肉体を焼き切るリミッター解除も、すべては彼女に再会し、今度こそ守り抜くため。
だが、王都に響き渡る号外の叫びが、俺の人生のすべてを否定する。
「ミヅキ……婚約、したのか……?」
聖女の隣に立つのは、俺ではない、この国の王子。
崩れ落ちる俺の背中に、温かな、けれど逃げ場のない腕が回る。
「大丈夫。私がずっと側にいてあげる。……ね?」
世界が反転する。
希望が消えた暗闇の中で、俺は自分を飲み込もうとする「慈愛」に、抗う術を知らなかった。
王立魔術学院、入学式当日の朝。
カーテンの隙間から差し込む春の陽光が、新生活の始まりを祝福するように部屋を照らしていた。キッチンからは、セシルが手際よく調理する小気味よい音が響き、香ばしいパンの匂いとスープの香りが鼻腔をくすぐる。
ゼクスは、いつものようにセシルが用意してくれた栄養満点の朝食を口に運びながら、心ここにあらずといった様子で窓の外を眺めていた。
(今日だ。学院に行けば、美月の情報が掴めるかもしれない)
期待と不安が入り混じる胸中を見透かすように、セシルが対面の席からじっとゼクスを見つめる。彼女は自分の皿を片付けると、少しだけ改まった表情で切り出した。
「ねえ、スーちゃん。提案なんだけど……今日、学院まで腕を組んで登校しない?」
「えっ、腕を……? さすがにそれは目立ちすぎるんじゃ……」
「だって、スーちゃんはもう有名人でしょ? 私だって、一応は特待生だし。……きっと、変な悪い虫がお互いについちゃうと思うんだ。だから、牽制の意味も込めて……ダメかな?」
セシルは少しだけ眉を下げ、縋るような瞳でゼクスを見上げる。
――悪い虫。
その言葉を聞いた瞬間、ゼクスの胸を鋭い痛みが突き抜けた。セシルが自分以外の、どこの馬の骨とも知れない男と親しげに腕を組み、微笑み合っている光景。それを想像するだけで、視界が暗転するほどの拒絶感が込み上げてくる。
心の奥底には、まだ見ぬ美月への想いがあるはずなのに。今のゼクスにとって、小さい頃からずっと献身的に自分を支えてくれたセシルが「誰かのものになる」ことは、肉体を削られるような耐えがたい恐怖だった。
「……分かった。セシルの言う通りにしよう」
「本当!? えへへ、嬉しい! じゃあ、行こうか。私のスーちゃん」
満足げな笑みを浮かべたセシルは、ゼクスの逞しい左腕に、吸い付くような自然さで自分の腕を絡めた。
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王都『エルメリア』のメインストリートは、入学式を祝う人々と、それ以上に何か大きな「慶事」を予感させる異様な熱気に包まれていた。
正装に身を包んだ新入生たちが羨望と嫉妬の眼差しを向ける中、ゼクスとセシルは密着したまま歩を進める。だが、その歩みは不意に、前方から駆けてきた号外売りの少年の叫び声によって止められた。
「号外だ! 号外! 王国の未来を照らす、最大の吉報だよ!!」
ゼクスは何気なく、差し出された一枚の紙を受け取った。
王都に来てからの一週間、セシルとの穏やかな時間に安らぎ、自ら情報を探ることを後回しにしていたツケが、最悪の形で回ってきた。
そこには、先週の「史上最強の特待生」の文字を完全に塗り替えるほど、巨大な見出しが躍っていた。
『エドワード第一王子、卒業後に聖女ミヅキとの結婚を正式発表! 運命の出会いから一年。ついに二人が結ばれる!』
受け取ったゼクスの指先が、目に見えて震え始めた。
紙面に写真は載っていない。しかし、そこに記された『ミヅキ』という、この世界では聞いたことがない響きの名、前世で幾度となく愛を囁き合ったその響き。
「……美月……。……婚約、したのか……?」
十五年。
言葉も通じない赤ん坊の頃から、意識が遠のくほどの負荷に耐え、血を吐く思いで魔力を練り、ただ彼女に再会するためだけに、その一念だけで過酷な修行を続けてきた。
再会して、彼女を助け、今度こそ幸せにする――。
そのために積み上げてきた十五年という月日が、音を立てて崩れ落ちていく。
彼女がこの世界に降り立ち、既に一年が経過していること。それが王都では「公然の事実」として定着していたこと。そんな当たり前のことさえ、今の彼には毒となって全身に回る。
彼女が生きていたという安堵を、瞬時に「他人のものになった」という絶望という名の冷たい泥が飲み込んでいった。
その隣で、腕を組んでいたセシルの動きが、ピタリと止まった。
彼女の氷のように澄んだ水色の瞳は、ゼクスが握りしめる紙面の文字を一瞬で捉えていた。
(……ミヅキ。スーちゃんが前に教えてくれた、スーちゃんがずっと好きな人。……この世界の人じゃない、前の世界の、"特別"な人)
セシルの瞳から、一瞬にして光が消え、底知れない執着の闇が広がっていく。
彼女にとって、ゼクスが傷ついていることは、胸が締め付けられるほどに悲しい。だが同時に、その「特別な人」が王子のものになり、ゼクスの世界から永遠に失われたという事実は、抗いがたい「福音」でもあった。
「……スーちゃん。そんなに青い顔して……」
セシルは、震えて今にも崩れ落ちそうなゼクスの背中に、しなやかな腕を回した。まるで、傷ついた獲物を優しく、けれど絶対に逃げられないように捕らえる蜘蛛の糸のように。
「大丈夫。何があっても、私がずっと側にいてあげる。……たとえ世界中がスーちゃんを忘れても、私だけは、何があっても味方だから。……ね?」
春の祝祭に沸く王都の喧騒の中で、最強の少年の心は粉々に砕け散った。
その破片を一つ一つ拾い集めるように、セシルはより深く、より完璧にゼクスを自分だけの檻へと閉じ込めていくのだった。
第16話をお読みいただきありがとうございます。
ついに、この物語の最大の転換点を迎えました。
ゼクスが血の滲む努力を重ねてきた「唯一の動機」が消滅した瞬間。
読者の皆様には、この十五年の重みを感じていただけたでしょうか。
そして、ここで牙を剥いたのが(本人は聖女のような微笑みですが)セシルです。
彼女にとって、ゼクスの絶望は「自分だけが彼を救える」という最高のチャンス。
まさにハイエナのような、けれど純粋すぎる愛。
このままゼクスはセシルの檻に囚われてしまうのか。
それとも、入学式で本物の「美月」を目の当たりにしたとき、再び何かが動き出すのか。
物語はここから、ドロドロの修羅場へと突入します。
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