転生者の残響、泥棒猫を呑む絶望の泥流
「──ゼクスよ、和平はそなたの強い希望ということ、間違いはないな?」
玉座からの国王の問いかけは、低く、地を這うような重圧を伴っていた。
ゼクスが王国にも帝国にも肩入れしないのかという、冷徹な事実確認。だがそれは同時に、圧倒的な最強の存在から突きつけられた「平和の押し付け」でもあった。その理不尽なまでの武力を前に、王国も帝国も、もはや抗う術など持ち得ていなかった。
「はい。俺は帝国も王国も平等に……これ以上誰も死なない、争いのない世界にしたいと思っています。いえ、正確に言うなら──今は、人間同士で争っている場合ではないのです。歴史は、また繰り返そうとしているのかもしれないので」
ゼクスはそう言うと、携えていた重厚な古書を恭しく捧げ持った。
「帝国の古い歴史書を、皇帝陛下から直々に譲っていただきました。この記述を読み解くに……近々、この世界に『魔族』が再び現れる可能性があります」
「な……っ!?」
魔族──。その不吉な単語が響いた瞬間、謁見の間が凍りついた。
「かつて世界が闇に包まれる前、それを撃退するための助っ人として現れていたのが、我が国で言う『異界の者』のことです。そして、魔族が倒され、世界に平和がもたらされたとき、異界の者たちは……皆一様に、光と共に元の世界へ消えていった、と記述されております」
その言葉は、爆弾だった。
静寂のあと、堰を切ったように激しいざわめきが大広間を埋め尽くす。
「馬鹿な……魔族だと? そんな童話の存在を今さら信じろというのか!」
「帝国の古書なのだろう? おいそれと信用することなどできん!」
国王も険しい表情を向けると、第一王子エドワードもまた、激昂した声を上げた。
「そうだ! そんな帝国の都合の良い本など、信じられるわけなかろう! 我らをおののかせ、和平を飲ませるための罠に決まっている!」
周囲がどっと沸き立つなか──。
ゼクスのすぐ隣にいた美月だけは、雷に打たれたように硬直していた。
(……元の世界へ、消えていった?)
それは、美月がこの世界に呼ばれてから、片時も忘れたことのなかった悲願。
ずっと夢にまで見た「日本へ帰る方法」の、確かな手がかりだった。
美月の瞳に、目も眩むような希望の灯火がぽっと灯る。
嬉しさに胸を詰まらせ、隣に立つ最愛の人の横顔を一瞬だけ見つめた。
──けれど。
灯ったばかりの美月の光は、次の瞬間、絶望の泥流に飲み込まれて真っ暗に暗転した。
(待って……。光と共に消えたって……それって、肉体ごとこっちに来た『転移者』の話……だよね? 来た時と同じように肉体ごと消えたってことだよね……?)
ドクン、と心臓が破裂しそうなほど嫌な音を立てて脈打つ。
頭の先からサァッと血の気が引き、全身にねっとりとした冷や汗が吹き出していく。
美月は、ゼクスがこの世界で手にしてきた、あの異常なまでの魔術の強さを思い出す。そして、彼がこの異世界の理に馴染みすぎている理由を。
(涼翔は……『転生』したって言ってた。あっちの世界で一度死んで、こっちの世界の赤ん坊として生まれ変わったって……。涼翔の元の身体は、もうどこにも残っていないのに……っ)
肉体のない、魂だけの存在。帰るべき「器」をあっちの世界に失くした人間は、一体どうやってあの光の向こう側へ行くというのか。
もしかして、涼翔は──。
「涼、翔……?」
声を出すこともできず、美月の潤んだ瞳が、恐怖と戸惑いで激しく揺れ動く。
彼が自分を帰すためだけに戦い、自分だけをその光の中へ押し込んで、涼翔はこの世界に取り残される気ではないのか。そんな不穏な予感に胸が引き裂かれそうになった、その時だった。
ギィィ……と、謁見の間の巨大な扉が、重々しい音を立てて左右に開かれた。
「──セシル殿が、到着されました!」
響き渡る兵士の先触れの声。
大理石の床にコツコツと小気味よい足音を響かせ、現れたのは、少しだけ息を切らせ、しかし一点の隙もない完璧な聖女の微笑みを張り付けたセシルだった。その細い両腕には、先ほど自室ですり替えを完了した、あの「革袋」がまるで我が子でも抱くかのようにおぞましいほど大切そうに抱えられている。
セシルは部屋に入った瞬間、真っ直ぐに、ゼクスの真隣を陣取る美月を射抜くように睨みつけた。その瞳の奥には、すべてを凍りつかせるような冷徹な殺意がぎらついている。
美月もまた、そのあまりにも最悪なタイミングでの登場と、自分から涼翔を強奪している狂気的な独占欲を持つ彼女に、嫌悪感を剥き出しにして睨み返した。
衆人環視のなか、視線で火花を散らす二人の少女。
先祖の手記という名の、ゼクスを自分の世界に永遠に幽閉する「絶望の檻」を小脇に抱えたセシルは、美月の顔を睨みつけながら、胸中で激しい憎悪の炎を燃え立たせていた。
(やっぱり……。私が少し目を離した隙に、また私のスーちゃんにすり寄って……。エドワード様がいるっていうのに、この泥棒猫ときたら、本当に油断も隙もない……!)
けれど、誰にも気づかれないほど微かに、セシルの唇の端が愉悦に吊り上がった。
(今のうちにせいぜいスーちゃんに甘えておきなさい、泥棒猫。あなたのその醜い希望を、スーちゃんの未練を、すべて永遠に叩き潰す爆弾は、もう私のこの手の中にあるのだから──)




