始まりの季節の遺物、下着の奥に眠る絶望
バタン、と重厚な扉が閉まり、王国の馬車という完全な密室に一人きりになったその瞬間。
セシルの顔から、先ほどまで周囲に向けていた可憐な笑顔が跡形もなく消え失せた。
馬車が王都の自宅へと到着するや否や、セシルは足早に自室へと駆け込んだ。鍵を厳重に閉め、迷うことなくタンスへと向かう。
まずは、パパから手渡されたあの「革袋」を開け、中身を引きずり出した。
現れたのは、出産や育児に関する医学書。
「くすっ……万が一のために、私が頼みそうな本を的確にチョイスするなんて。さすが私のパパ」
お堅いハンスが、愛する娘のために顔を赤らめながらこれを書棚から選んでいる姿を想像し、セシルは小馬鹿にするような愉悦を瞳に宿して目を細める。
本当にこれが今の自分に大事な本なのかと言われれば疑問だが、そんなことはどうでもよかった。「年頃の女の子が男の子に見られたくなくて、必死に隠したがるもの」という言い訳として、これ以上の正解はない。
万が一バレたとしても、スーちゃんならこれを見た瞬間、真っ赤になってそれ以上追及するのをやめるはずだ。
素早く着替えを済ませ、姿見の前で身嗜みを整える。
鏡の中の自分が「完璧な婚約者」であることを確認した瞬間、セシルの顔から再び感情が綺麗に消え去り、冷酷な氷の仮面へと変貌した。
セシルはタンスのさらに奥、下着が仕舞われている引き出しの最奥へと手を伸ばす。
指先が触れたのは、一冊の古びた本──パパが言っていた、我が家に代々伝わる先祖の手記だった。
思い出すのは、あの懐かしい日々。
この王都の家にスーちゃんと一緒に住むことになり、散らかっていた書斎の本を片付けていた、あの始まりの季節の記憶。
あの時、偶然見つけてしまったのが、この手記だった。
ハンスの、つまりは私の先祖が遺したその手記には、絶望的な世界の真実が刻まれていた。
異界の勇者たちのこと。
転生した者のこと。
召喚されてきた最愛の恋人と共に魔王を倒した数刻の後、転移してきた者は……最愛の恋人は光に包まれ消えていったこと。
転生者は、ただ一人この世界に取り残され絶望に身を焦がしたこと。
あの日、何気なく中身を覗き見たセシルは、そこに綴られた驚愕の事実を前に、思わず息を呑んでそれを隠した。
応援しようと思っていたけれど、あれ以上スーちゃんが傷つくなら。
悲しい結末しか待っていないのなら、私が幸せにするんだって誓った。
(あの時なら……まだ、駄目だった。あの時だったらスーちゃんは、『美月様は、いずれ元の世界に帰るはずだから』って、エドワード王子との婚約なんて無視して、彼女のもとへ走って行ってしまったかもしれない……)
美月様がエドワード王子と結婚して、完全に手の届かない存在になるのを見届けるまでは、絶対にこれを見せるわけにはいかなかった。あるいは、私と裏切れない仲になるまでは。
今なら大丈夫──。
今のスーちゃんは、たとえ元の世界に帰れる方法が見つかったとしても、私への責任から、この世界に残るとハッキリ言ってくれたのだ。
自分を真っ直ぐに愛してくれる私を、絶対に裏切らないと誓ってくれた。
(今のスーちゃんなら、大丈夫。これを見せれば、あの人は「自分はもう絶対に元の世界へは帰れない」と絶望する。……けれど、その絶望の底で、私が優しく抱きしめれば、今度こそ帰る場所を失くして、永遠に私だけと一緒にいようとしてくれるはず)
元の世界への未練も、あの泥棒猫への断ち切れぬ想いも、この手記がすべてを粉々に叩き割ってくれる。
絶望し、涙を流すスーちゃんを、優しく、優しく包み込んで、私の檻から一歩も出られないようにして幸せにしてあげる。
脳裏に浮かぶのは、仕掛けられた完璧な檻の中で、すべてを諦めて自分だけを愛するようになるゼクスを受け止める、甘やかな抱擁。
ドス黒い、どろりとした執念が、セシルの瞳の中で妖しく蠢き、その唇が歓喜に歪む。
(もう、あの泥棒猫に怯えなくてすむ。私とスーちゃんとの、誰にも邪魔されない幸せな未来が待ってる……!)
カサリ、と音を立てて、先祖の手記をハンスから渡された革袋の中へと滑り込ませる。
中身のすり替えは、これで完了した。
美月の運命を、そしてゼクスの心を永遠に狂わせる最悪の爆弾が、完璧な純潔の嘘という包装紙に包まれた瞬間だった。
「急がないと」
セシルは小さく呟き、はっと我に返る。
いくら人目があるとはいえ、王城の門ではあの泥棒猫がスーちゃんを待っているのだ。
自分がいない隙を突いて、あの女がスーちゃんにどれだけ気安く触れ、その甘ったるい声を吹き込んでいるか。
そう想像するだけで、内臓がどろどろに煮えくり返りそうになる。
一秒でも早く、スーちゃんの隣を奪い返さなければならない。
「お待たせしました!」
姿見に向かって、今一度、世界で一番愛らしい婚約者の笑顔を張り付ける。
すり替えを完了した革袋を、まるで宝物でも扱うように大切に両手で抱きしめながら、セシルは家の扉を勢いよく開け放ち、外で待たせていた御者へと声をかけた。
泥棒猫のいる王城へ、愛しいスーちゃんのもとへ。
「できるだけ、急いでください……! 」
馬車を急がせるセシルの胸中では、ドロドロとした歪んだ愛の炎が、激しく燃え上がっていた。




