かりそめの陽だまりと背後に迫る冷眼
「ねぇ、セシルさんは……? どうして一緒にいないの?」
「ああ、セシルなら、ちょっと忘れ物をしちゃったみたいでさ。一度、王都の家に取りに戻ってから、後で王宮で合流するって」
ゼクスは何の疑いもなく、おっとりと笑ってそう答えた。
けれど、美月の胸には、小さく不気味なざわめきが広がっていく。
(忘れ物……? あのセシルが?)
あの女が、涼翔を一人にして別行動をとるなんて、これまでの常識ではゼロに等しい、あり得ない事態だった。
涼翔の隣という自分の「聖域」を、ほんの一瞬でも誰かに譲るような真似をするはずがない。
それを覆してまで、一人で家に戻るなんて。よっぽど……よっぽど他人に見られたくない、大事な忘れ物なのだろうか。
深まる疑問。けれど、セシルがいないというその事実が、美月の警戒心を不意に緩めてしまう。
ふと気づけば、並んで歩く涼翔との距離が、驚くほどに近い。
彼の肩が、自分の腕に触れそうなほどに。
「あ……」
美月は急に恥ずかしくなり、自分の身体を見下ろした。
ついさっきまで、フィジカルアップの猛特訓をしていたのだ。
額には薄っすらと汗が浮かんでいる。
「あの……私、汗臭くないかな……? 慌てて走ってきたから……」
年頃の女の子として、何より、好きな人の前として、あまりにも不名誉な慌て方に顔がカッと熱くなる。
そんな美月の様子を見て、ゼクスは声を立てて、心底楽しそうに笑った。
「あははっ、昔から美月はそれ、よく聞いてくるよな。体育の後の昼休みとかさ」
周囲を気にしてこっそりと耳打ちするように、そしてゼクスは美月の顔を覗き込むと、悪戯っぽく微笑んで見せる。
自分はどうなるかわからないが、美月は必ずいずれこの世界を去る。
エドワード王子との婚約もなかったことになる。だから、今だけはすべての重荷を忘れて、せめてあの頃のただの幼馴染に戻りたい。
傍にいたいと願う、彼の切ないまでの想いがその笑顔には滲んでいた。
「大丈夫、全然臭くない。相変わらず、いい匂いがする」
「なっ……!?」
不意打ちで鼓膜を揺らした、甘く懐かしい低音。
脳が沸騰しそうなほどの衝撃に、美月は真っ赤になって絶句した。
何も変わらない。その視線も、少しからかうような声音も、前世で自分を優しく抱きしめてくれた「涼翔」そのものだった。
嬉しくて、狂おしいほど愛おしくて、けれどセシルの影がチラついて胸が引き裂かれそうになる。
様々な感情がごちゃまぜになって、美月はただ、熱くなった顔を両手で覆うことしかできなかった。
(……どうして、こんなに人目があるのよ……)
周囲を取り囲む王国の兵士たち。そして背後を歩く帝国の使節団。
これほど無数の視線に晒されていては、あのときの言葉を追及することなんてできない。
かりそめの陽だまりのような温かさの中で、美月はもどかしさに胸を焦がすことしかできなかった。
一方──。
二人の少し後ろを歩いていた帝国の副長イレイアは、その微笑ましいやり取りを眺めながら、端正な顔をわずかに引きつらせていた。
(……ちょっと待って)
イレイアの脳裏に、かつて拓真から密かにもたらされた情報が蘇る。
『あのゼクスって男は、俺たちと同じ故郷から来た転生者だ。前世の名前はスドウスズト。そして──あの聖女美月と、前世で恋人関係だった男だ』
ここへ来るまでの間、四六時中、あのセシルという凄まじい執念を持った婚約者と、あれほど熱烈に、当てつけのようにイチャイチャと睦み合っていた男が、である。
王都の門をくぐり、その婚約者の姿が見えなくなった途端に、今度は前世の元カノである聖女と、まるで何事もなかったかのように親密な空気を出して笑い合っている。
昔馴染みの距離感で、こともあろうに「いい匂いがする」などと、自然な口調で口説くような真似をしてのけているのだ。
(何なの一体、この男は……。婚約者にあれだけ狂信的に愛されておきながら、彼女の目が盗めるようになった途端、元カノをあんな自然にたらし込むなんて……! もし私がセシル殿に牽制されていなかったら、この天性のタラシに今頃どんな風に狂わされていたことか……)
イレイアの瞳に、ジワジワと冷ややかな、心の底からの軽蔑と戦慄が灯っていく。
(この男……。とんでもない、最悪の女ったらしなんじゃないの……!?)
背後にいるイレイアが、そんな特大の誤解を抱いて戦慄していることなど、目の前で互いへの想いに胸を焦がす二人が知る由もなかった。
それぞれの歪んだ思惑と誤解を乗せて、一行は静かに、けれど確実に、王宮の謁見の間へと進んでいくのだった。




