砕かれる常識と、親子の密約
馬車がゆっくりとベルンシュタイン村へと滑り込んだ瞬間、静かだった村の空気が一変した。
現れた見慣れない帝国の馬車に、農作業をしていた村人たちが一斉に警戒の眼差しを向け、張り詰めた緊張が走る。
だが、その馬車の扉が開き、見慣れた青年がひょっこりと顔を出した瞬間、人々の表情が驚愕へと変わった。
「みんな、ただいま! 心配かけてごめん!」
ゼクスが馬車から降り立ち、集まってきた村人たちへ向けて、これまでの経緯を大急ぎで説明し始める。
行方不明だと騒がれていた英雄の突然の帰還に、村中がにわかに沸き立った。
そんな騒ぎを聞きつけ、人波を割って現れたのは──ゼクスの両親であるバルトロとミラ、そしてセシルの両親であるハンスとマリアだった。
「お前というやつは、本当に何を考えているんだ……!」
まずバルトロが、正式な叱り役として一歩前に出てゼクスを厳しく叱り飛ばした。
何の後ろ盾もなく敵国へ隠密侵入するなど、親としても村の責任者としても、到底生きた心地がしなかったのだ。
ゼクスはバルトロたちの剣幕に、ただただ小さくなって「ごめんなさい……」と素直に頭を下げるしかなかった。
「もう、あなたは怒ってばかりなんだから! ──ゼクス、本当に無事でよかった!」
縮こまるゼクスをかばうように、ミラとマリアが堪えきれずに駆け寄り、その身体をきつく抱きしめた。
母親たちの温かい肌の温もりと涙混じりの声に、ゼクスは自分がどれほど心配をかけていたかを痛感し、黙って身を委ねる。
そんな、ゼクスが完全に身内の情愛と説教に意識を奪われている最中。
セシルが、隣にいた父親のハンスの袖をそっと引き、誰にも気づかれないほどの小声で耳打ちをした。
(──パパ。例の『あれ』、お願いね)
その瞬間、ハンスは一瞬だけ目を見開き、娘の瞳の奥にある昏い決意を読み取った。
ハンスはすぐに娘が何を意図しているのかを察し、小さく息を吐き出しながら、深く頷いた。
「……あ一、わかった」
ハンスはわざとらしく咳払いをすると、ゼクスへの説教を切り上げるように言葉を繋いだ。
「まあ、状況は理解した。お前が帝国へ向かった理由も、そこでの顛末もな」
「全く、お前は本当に規格外すぎる。毎回毎回、俺たちの心臓がいくつあっても足りんぞ」
バルトロが呆れ果てたように深く溜め息をつく。しかし、その顔には怒りだけでなく、無事に帰ってきた息子への確かな安堵が滲んでいた。
「だけど、まさか単身で帝国に乗り込んで、そのまま両国の和平を結ぶ架け橋になって戻ってくるなんてね……。本当に、さすがとしか言えないよ」
ハンスが感心したようにそう告げると、後ろに控えていたミラとマリアも、誇らしそうに笑ってゼクスを褒めちぎった。
「本当ね。無事で良かったわ。──せっかくの機会だし、皆さんで家で食事でもしたらどうかしら?」
マリアが名案だと言わんばかりに手を叩き、嬉しそうに同意する。
「ええ、それがいいわ! 帝国の方にお料理を振る舞うなんて、生まれて初めてだわ。腕が鳴るわね」
そんな両親たちの怒涛の歓迎っぷりに、馬車の中で固まっていたイレイアは、完全に困惑していた。
(……何、この状況? 私はつい先日まで、命を懸けて殺し合っていた敵国の副長なのよ? なのに、あの理不尽な化け物の実家で、お母様方の家庭料理でもてなされようとしている……? おかしい、私の頭がおかしくなったの……?)
あまりにも牧歌的で、あまりにもおかしな現実に、彼女の帝国軍人としての常識は、もはや塵一つ残さず粉砕されかけていた。
こうして、一行は賑やかにバルトロの家へと向かうことになった。
ハンスだけは娘との約束を果たすため、「俺は少し、家に取りに行くものがあるから後で行く」と言い残して一度自宅へ戻ったが、すぐに目的のものを回収すると、何食わぬ顔でバルトロの家の食卓へと合流した。
バルトロの家で行われた食事会は、イレイアの戸惑いを置き去りにして、非常に温かく、和やかなものとなった。
帝国の御者兵たちも、最初は怯えていたものの、村の人々の飾らない優しさと絶品の料理に、次第に表情を緩めていく。
やがて、お腹を満たし、一息ついたところでゼクスが立ち上がった。
「ごちそうさまでした! 本当に美味しかった。……だけど、俺たちは一刻も早く王都へ行って、事の顛末を報告しないといけない。母さんたち、帝国の人までもてなしてくれて本当にありがとう」
「本当にありがとうございました。とても美味しかったです」
イレイアたちも立ち上がり、胸に手を当てて深々とお辞儀をした。一国の魔術師団副長としてのプライドではなく、純粋な感謝がその礼に籠もっている。
「お口にあったようでなによりだわ」
ミラが、一緒に腕を振るったマリアに視線を投げかけ、二人して慈愛に満ちた優しい微笑みを返す。
そんな温かく仲睦まじい様子を名残惜しそうにしながらも、ゼクスたちは一同に見送られ、再び馬車へと乗り込もうとする。
その出発の直前、ハンスが、そっとセシルのもとへ歩み寄った。その手には、中身が全く見えない、厳重に封じられた一袋の革袋が握られている。
「セシル。──これを」
ハンスは、ゼクスにも聞こえるような、妙に厳かな声でセシルにそれを手渡した。
「以前、セシルに頼まれていた本だが、私の書庫から見つかった。だが、非常に大事な物だから、ここではなく、必ず王都の家へ着いて、落ち着いてから開けなさい」
「? ハンスの叔父さん、それって……」
ゼクスが不思議そうにその革袋を見つめ、思考を巡らせようとした──その瞬間。
セシルはゼクスの視界を遮るように一歩前に踏み出し、その思考を完全に断ち切るような、とびきり弾んだ声をあげた。
「はーい! パパとの約束だもん、ちゃんと家に帰ってからあけるね」
セシルは革袋を両手で愛おしそうに、大切そうに抱きしめると、ハンスに向けて、ひまわりが咲いたかのような、どこまでも無邪気で満面の笑みを浮かべた。
「パパ、本当にありがとう……!」
(これがうまくいけばもう終わり。スーちゃんは私を選ぶしかなくなるの。あの泥棒猫がどれだけスーちゃんに縋りつこうとしても、今のスーちゃんがあの本を読んだらあの女を選ぶことはもうない……!)
ゼクスの優しさも、抱える罪悪感も、そのすべてを計算通りに自分の檻へとはめ込むピースが揃った。
脳内で、美月が絶望に顔を歪めて泣き崩れる惨めな姿を思い描き、セシルの胸の奥からどろりとした甘い悦びが溢れ出す。
ハンスは、目の前でひまわりのように無邪気に咲き誇る娘の笑顔を、ただ黙ってまじまじと見つめていた。
その胸の奥底では、世界を滅ぼしかねないほどのどす黒い執念と歪んだ歓喜が猛烈に渦巻いているはずなのだ。それなのに、ゼクスにも周囲の誰にも、指先一つ、産毛一本すらその狂気を感じ取らせない。
あまりにも完璧に「恋する無垢な少女」を演じきってみせる我が娘。その底知れない仮面と、美しくも恐ろしい笑顔の完成度に、ハンスは身内でありながらゾッとするような戦慄を覚えていた。
(……全く、この娘ときたら、末恐ろしいことを考えているんだろうな……)
ハンスは内心で、我が娘の底知れない執念と知略に背筋が寒くなるのを覚えながらも、二人のために、ただ静かにそれを見送るしかなかった。
馬車は再び、ゆっくりと動き出す。
両国の和平を成すために、王都へ向かって──。




