隠密行の露見、微笑みのまま向かう故郷
話には聞いていた。だが、目の前に広がる光景は、およそ正気の沙汰とは思えなかった。
巨大な山を文字通り真っ直ぐに穿った、果てしない大穴。
イレイアは馬車の小窓から流れる並び立つ岩肌を、あり得ないものを見るかのような眼差しで見つめながら、ただ圧倒されていた。
一人の人間の魔術で山が抜かれたのだ。
その事実を、脳が未だに拒絶している。
やがて、暗闇の向こうに出口の光が見え始めたその時。
ゼクスがふと、何かを察知したように御者台に向けて馬車を止めるよう指示を出した。
「……ゼクス殿? どうかいたしましたか」
「トンネルの外に、複数人が待ち構えているみたいだ。やっぱりこのトンネルを見つけたら普通は警戒するよね。──少し、話をしてくるよ。イレイアさんたちは待ってて」
ゼクスはいつも通りの軽い調子で言うと、隣に座るセシルへと優しく手を差し伸べた。
セシルは当然のようにその手を取り、嬉しそうにゼクスの身体に寄り添って馬車を降りていく。
残されたイレイアは、呆然とその背中を見送るしかなかった。
(ふぅ、あの二人、一緒じゃないときってあるの……? 何も言わず、当然のようにくっついて……やっぱりどこか、普通じゃないわ……)
内心で盛大な溜め息を吐きながら、イレイアはそっと息を潜める。
一方、真っ暗なトンネルの出口付近。
急に現れた気配に、王国兵たちが色めき立ち、槍や剣を構えて身構えた。
緊迫した空気が張り詰める中、穴の中から場違いののんきな大声が響き渡る。
「おーい! ちょっと用事があって帝国へ向かっていたゼクスです! ただいま戻りました! 警戒を解いていただけませんか──!?」
ゼクスです、と名乗る声に、王国兵たちは怪訝な顔をして互いに顔を見合わせた。
困惑する兵士たちの前に、堂々と姿を現したのは──。
「突然攻撃されるかもしれないから」と、当然のような顔でセシルを軽々とお姫様抱っこしたゼクスだった。
腕の中のセシルは、この世の何よりも幸せそうにゼクスの首に細い手を回し、甘えるように胸に顔を寄せている。
周囲にいる王国兵たち全員を見せびらかすための観客としか思っていないような、歪んだ優越感に満ちた熱い吐息をゼクスの首筋に吹き付けていた。
「…………」
王国兵たちは、完全に呆気にとられて武器を構えたまま硬直した。
確かに、数日前から行方不明だと騒がれていた英雄ゼクスと、その婚約者のセシルだ。それは間違いない。ないのだが、あまりにも緊張感のない、甘やかな空気のまま敵国から戻ってきたその姿に、誰も言葉が出ない。
ゼクスは兵士たちの前まで来ると、お姫様抱っこの状態のまま、これまでの経緯を手短に説明し始めた。だが、あまりに荒唐無稽な内容に、王国兵たちの表情には「信じられない」の文字がこれでもかと浮かんでいる。
「……というわけですので、攻撃しないでくださいね? せっかく両国で和平を結ぼうって時に、ここで揉めたら全部台無しになっちゃいますから」
ゼクスは苦笑しながらそう告げると、一旦馬車へと戻り、そのまま馬車を兵士たちの前まで進めさせた。
馬車の扉が開き、中から帝国の魔術師団副長であるイレイアと、帝国の御者兵たちが姿を現す。
その瞬間、王国兵たちの間に再びピリついた緊張が走った。
お互いに武器こそ向け合ってはいないものの、つい数日前まで命を懸けて戦っていた間柄だ。
言葉にできない激しい睨み合いが始まる。
「はぁ……」
ゼクスは頭を掻きながら、深い溜め息を吐き出した。
「とりあえず、帝国の皆さんが何か不穏なことをしたら俺が全力で止めますので。通りますよ?」
それは、飾らない穏やかな笑顔のまま放たれた、絶対的な『脅迫』だった。
もしここでどちらかが無駄な血を流そうものなら、その時はこの英雄が、敵味方関係なく強制終了させる──笑顔の双眸の奥に宿る、圧倒的な絶対強者の『圧』に気圧され、広場の全兵士の背筋に冷たい戦慄が走った。
「……え、英雄殿の仰ることだ。仕方ない、通せ!」
隊長らしき兵士が苦渋の決断を下し、包囲網が左右に開かれる。
馬車がゆっくりと通り抜けようとする中、一人の王国兵が引き締まった表情で前に出た。
「早馬で、混乱が起きないように我らがことの次第を先に王都へ報告します!」
兵士はそう叫ぶと、すぐさま馬に跨り、猛烈な勢いで駆け抜けていった。
馬車が再び静かに走り出す。
自分たちが「行方不明」として王国中を騒がせていることを知ったゼクスは、ふと思いついたように対面のイレイアに向き直った。
「みんな心配してくれているんだな……。イレイア、王都へ行く前に、一度俺たちの故郷の村へ寄ってもいいかな? 両親たちを安心させておきたいんだ」
「え……? ええ、私は構いませんが……」
突然の提案にイレイアが瞬きをする。すると、ゼクスの腕に嬉しそうにしがみついたまま、セシルが満面の笑みで言葉を重ねた。
「私もそうした方がいいと思う!「パパもママも、内緒で帝国へ行ったって知ったら、きっとすっごく心配してるはずだから」
「あはは……。そうだね。確実にバレちゃってるみたいだし……帰ってちゃんと謝っておかないとね」
少し困ったように頭を掻くゼクス。
敵国への隠密侵入という大事件の帰路だというのに、まるでちょっとした悪さが親にバレたかのような二人の調子に、イレイアはただただ、自分の常識が削り取られていくのを感じるのだった。




