若き聖人への畏敬、その瞳を許さぬ少女
帝国が用意した頑強な軍馬と、ゼクスたちが乗ってきた軍馬。その二頭に引かれた一台の馬車が、乾いた音を立てて帝都からの道をひた走る。御者台に座る二人の帝国兵が手綱を握り、馬車は王国へと向かう帰路を進んでいた。
だが、その馬車の内部は、外の爽やかな風とは裏腹に、息が詰まるほどの緊張感に満たされていた。
並んで座るゼクスとセシル。そして、セシルの対面に腰掛けるイレイア。
狭い密室の中で、セシルは一切の隙もなくゼクスの身体にぴったりと密着していた。その細い腕で彼の腕を抱きかかえ、片時も離そうとしない。
それだけならただの睦まじい恋人同士の光景だが、問題はセシルの視線だった。
彼女はゼクスに身体を預けたまま、その光の入らない冷徹な瞳で、じっとイレイアのことだけを睨みつけているのだ。
(……やっぱり、あの時、私が攻撃を仕掛けたことをまだ根に持っているのだろうか……)
イレイアは内心で冷や汗を流し、いたたまれない面持ちで視線を彷徨わせた。
(というか、この二人、いつもこうなの? 謁見の間でもそうだったけれど、いくらなんでも距離が近すぎる。……どこか、普通じゃない)
これ以上この無言の圧迫感に耐えかねたイレイアは、まずは過去の因縁を清算し、少しでも空気を和らげるべきだと意を決して口を開いた。
「あの……ゼクス殿。大変遅くなりましたが、謁見の間で拓真殿と共に貴方に攻撃を仕掛けてしまったこと、本当に申し訳ございませんでした」
頭を深く下げるイレイアに対し、ゼクスはいつも通りの、飾らない穏やかな笑みを浮かべて手を振った。
「いや、構わないよ。あの程度の攻撃、俺は何とも思っていないから。気にしないでくれ」
「──え?」
ゼクスにとっては本心からの気遣いだった。しかし、帝国魔術師団の副長として命を懸けた全力を「あの程度」と言い切られたイレイアは、自身のプライドと実力差の絶望に、内心で激しいショックを受けて言葉を失ってしまう。
そんなイレイアの困惑に追い打ちをかけるように、セシルが低く、低音の鈴を転がすような声で言葉を重ねた。
「もう、あんな真似は二度としないでね?」
向けられたセシルの瞳は、先ほどよりも一層深く、昏い闇に沈んでいた。
(次やったら、今度こそその首を無慈悲に跳ね飛ばしてあげるから)
言葉にせずとも、その冷酷な殺意がありありと伝わってきて、イレイアの背筋を強烈な悪寒が駆け抜ける。
「は、はい……。もう二度とあんな愚行はいたしませんし、その理由もありません。今や我が皇帝陛下も、エルメリア王国との和平に積極的ですので」
イレイアは引きつる笑みを抑え、必死に弁明した。
「そうか。それなら良かった」
ゼクスはセシルの底知れない独占欲に気づく様子もなく、ふと思いついたように話を切り替えた。
「ところで、イレイア。この先、王国へ戻る道中にいくつかの村があると思うんだが、もし近くを通りかかることがあれば、少しだけ立ち寄って土と肥料だけでも置いていくことは可能かな?」
「え……? 村に、ですか?」
「ああ。手短に済ませたいから、立ち寄った先での説明はイレイアに任せたい。それと、もたらした物資は特権階級が独占せず、民たちへ平等に分けることを、帝国兵の権威をもって厳命してほしいんだ」
ゼクスの言葉に、イレイアは大きく目を見開いた。
絶大な力を持ち、帝国を恐怖に陥れることも容易だったはずの男。その彼が、自らの帰路を遅らせてまで、まだ飢えに苦しむ名もなき辺境の民たちのことを案じている。
(この御方は、本当に……どこまでも、人々の救いを第一に考えて行動しているのだな)
イレイアの胸の中にあったゼクスへの恐怖や警戒心は、彼の圧倒的な慈悲深さを前にして、深い敬意と感謝へと塗り替えられていった。
イレイアは、目の前の若き聖人の横顔を、思わずじっと見つめてしまう。
畏敬の念と、それ以上の何かが、彼女の胸の奥でかすかに灯っていた。
──刹那。
彼女に向けられていたセシルの瞳から、残っていたわずかな光すらも完全に消え失せた。
にこり、とセシルの唇の端が釣り上がる。それはまるで行く手を阻む害虫を駆除する直前の、絶対零度の笑みだった。
(……今、私のスーちゃんをどんな目で見たの? その小生意気なほどに綺麗な両目で、私のスーちゃんに色目を使ったの? ……ねえ、今すぐその目を、私の手で抉り取ってあげようか?)
「ひっ……!」
喉の奥から情けない悲鳴が漏れ、イレイアは心臓を鷲掴みにされたように身体を硬直させた。血の気が一気に引き、全身の毛穴が総毛立つ。
この少女は本物だ。
もし今ここで自分がゼクスに対してほんの少しでも「女」の一面を見せれば、間違いなく命を刈り取られる。
本能がそう告げていた。
「……しょ、承知いたしました! ゼクス殿のその尊い御心、確かに受け止めました。す、すぐに、すぐに御者へ指示を出します!」
イレイアは必死にセシルの視線から逃れるように、慌てて馬車の小窓を開けると、御者台の兵士たちへ向かって経由地の変更を早口でまくしたてた。
己の中に渦巻く切ない想いと因果を隠し、ただ目の前の命を救おうとするゼクス。
彼を誰の手にも渡さないと、新しい同行者にすら静かな牙を剥くセシル。
馬車は行く先々の飢えた村々へと立ち寄り、ゼクスの手によって次々と「奇跡」を起こしながら、歪な緊張感を孕んだまま、エルメリア王国への道を進んでいくのだった。




