幼き約束への牽制、新たなる同行者の影
──それから、数日後。
帝都を覆っていた慢性的な飢餓の空気は、一人の男の規格外の活躍によって一変していた。
ゼクスがもたらした膨大な食料は、次の作物が実るまでの当座の命を繋ぎ、彼が指導した収穫後の肥料の扱いと的確な手順は、荒れ果てていた帝国の土壌を確実に蘇らせつつあった。
破滅の瀬戸際にあった帝国の食糧事情は、完全に軌道に乗り始めている。
今後、ゼクスがこの地に設けた特別な農業区画は、ラミルが責任者として管理と警備の任に就くことが決まった。
彼の残した奇跡をこの手で守り抜く──それが、彼女に与えられた新たなる使命だった。
皇帝からの深い感謝の言葉と共に、あの古びた歴史書を譲り受けたゼクスは、それを手に、いよいよエルメリア王国への帰路につこうとしていた。
出発の間際、静まり返る邸宅から一転して活気に満ちた広場には、ゼクスによって救われた多くの人たちが、感謝の言葉を述べに集まっていた。
「貴方のおかげで、私たちは生き延びることができます」
「本当に、ありがとうございました……!」
口々に感謝を叫ぶ人々の中、一人の幼い女の子がトトト、と小さな足音を立ててゼクスに駆け寄ってくる。以前、この帝都でゼクスの手をそっと握りしめた、あの少女だった。
女の子は再びゼクスの大きな手をきゅっと握りしめると、満面の笑みを浮かべて見上げてきた。
「お兄ちゃん、ありがとう……!」
「……どういたしまして」
ゼクスはいつもの優しい笑顔を浮かべ、小さな頭をそっと撫でてやる。しかし、その双眸の奥にある表情は、どこか晴れないまま微かに沈んでいた。
(この中にはきっと俺が親を奪ってしまったかもしれない子もいるんだ……)
──その瞬間、周囲の温度が劇的に下がったかのような、凄まじい殺気が広場の一角を支配する。
ゼクスの隣に佇むセシルが、少女が握る彼の「手」を、光の入らない瞳で見つめていた。
(……またあの女、私のスーちゃんの手を汚い手で握って……。やっぱり今度こそ、その細い手首から、引き千切ってあげようか? そうすれば、二度とスーちゃんに触れられないよね?)
皮膚を刺すような本物の殺気をいち早く察知し、ラミルの背中にドッと冷え汗が噴き出す。
彼女は顔を引きつらせながら、慌ててゼクスと女の子の間に割り込み、少女をゼクスから引き剥がした。
「あ、あはは……! そろそろゼクスさんは行かないといけないからね? お別れを言おうか」
「はーい!」
ラミルの必死の形相など気にも留めず、女の子は無邪気に笑いながら、ゼクスに向かって両手を振った。
「大きくなったら私、お兄ちゃんと結婚したい!」
ドクン、とセシルの心臓がひときわ不快に脈打つ。
一瞬にして彼女の表情から温度が消え失せた。
「お兄ちゃんは、私と結婚するの。だから、それはできないなー?」
鈴を転がすような優しい声音。しかし、その裏にあるセシルの瞳は、一切笑っていなかった。底の知れない暗黒が、幼い少女を真っ直ぐに射すくめている。
その威圧感に気圧されたのか、女の子は一瞬だけ身体をすくませたが、すぐに小さく首を傾げた。
「そっか……お姉ちゃん、とってもきれいだし、本当にお似合いだもんね。わかった!」
「ふふ、ありがとう。お利口さんね」
お似合いと言う物分かりの良い幼子の言葉に、セシルは一転して満足そうな、慈悲深い聖女のような笑みを浮かべる。
ゼクスはその微笑ましいやり取りを、ただの子供の憧れからのわがままと、恋人の可愛い嫉妬だと思っているのか、少し目元を和らげて笑って見ている。
だが、その背後で事の顛末を見ていたラミルは、幼子にすら一切の手加減なく本気の殺意を向けたセシルの異常性に、半ば本能的な恐怖で身体を震わせるしかなかった。
「──ゼクス殿。準備はすべて整っております。いつでも出発できますよ」
(あの時、俺に攻撃を仕掛けてきた魔術師が……か。まあ、それはお互い様だが)
重苦しい空気を切り裂くように進み出てきたのは、凛とした佇まいの美しい女性だった。
帝国の魔術師団副長、イレイア。
皇帝の命を受け、使者として彼らの旅路に同行することとなった彼女が、一歩後ろで深く一礼する。
セシルの視線が、ゆっくりと動き、今度はその新たなる「同行者」の全身を品定めするように捉えた。その光の入らない氷の瞳が、冷徹に向けられる。
(謁見の間でスーちゃんに攻撃した人⋯⋯スーちゃんに変な色目を使ったり、また何かしたら今度こそその首無くなるからね?)
様々な思惑と歪な執着を孕んだまま、ゼクスたちは静かに帝都の門をくぐり、再びエルメリア王国を目指して歩みを進めるのだった。




