英雄の狂気、誰の手も届かぬ地で
──圧倒的な力を誇った英雄ゼクスが、セシルと共に姿を消してからしばらく。
エルメリア王国では、一向に戻る気配のない英雄の身を案じ、水面下で大きな動揺が広がっていた。
事態を重く見た国の上層部により、とうとうベルンシュタイン村へ、使者として魔術師団副長のエレノアが派遣されるに至る。
だが、その行方不明の報に、誰よりも深く胸を痛めている少女がいた。──美月である。
「どうして……帰ってこないの……?」
自室のベッドの上で、美月は小さく身体を丸め、震える声で呟いた。
頭をよぎるのは、ゼクスがセシルを伴って消えたという厳然たる事実。
(二人で、このまま村で暮らすの……? ねえ、どうして……どうして私を置いて……?そこまでして私を遠ざけたいの……?)
胸を掻き毟るような焦燥と、涼翔を独占し自分に敵意を向けて、これ見よがしにマウントをとって突き放してくるセシルへの歪んだ感情が、美月の心を容赦なく蝕んでいく。
美月にとってあの女は、大切な人を奪い去った明確な敵に他ならなくなっていた。
ベッドのシーツを、爪が割れるほどの強さでぎりぎりと引きちぎらんばかりに握りしめる。
美月の脳裏には、涼翔の腕にしがみつき、自分を見下すように冷たくせせら笑うセシルの顔が、不快な幻影となって張り付いて離れない。
(私の涼翔を返してよ……きっと、婚約まで結ばせたあの女が……あの女が涼翔を唆したに決まってる……!)
───────
一方、ベルンシュタイン村に到着したエレノアは、即座に村の管理を担う面々を集めていた。しかし、そこで明かされた「真実」は、王国の認識を大きく覆すものだった。
「ゼクスは、すでに王都へ遺品を持って戻ったはずですって……?」
エレノアの言葉に、ゼクスの両親であるバルトロとミラ、そしてセシルの両親であるハンスとマリアの表情が一変し、一瞬にして場に重苦しい沈黙が落ちる。エレノアがもたらした情報と、彼ら親たちの認識が、完全に食い違っているのだ。
全員が困惑に沈む中、腕を組んで考え込んでいたハンスが、ぽつりと一つの推測を口にした。
「……あの微かに感じた振動、もしやあの馬鹿は……」
ハンスのただならぬ気配に、エレノアは彼と共に帝国へと続く山へ向かった。
山沿いを駆けている二人の前に現れたのは、巨大な山を真っ直ぐに穿つ、途方もなく深く、真っ暗闇に包まれた巨大なトンネルだった。
「これは……」
息を呑むエレノアの横で、ハンスは深い頭痛をこらえるように額を押さえ、吐き捨てるように確信を口にした。
「間違いない。きっとあの馬鹿ども……帝国へ行ったんだ」
「な……ッ!?」
目の前に広がる、人の業とは思えないあまりにも滑らかで強引な大穴。
ハンスは呆れるほどの無茶苦茶な魔術に、盛大な溜め息を吐き出すしかなかった。
「とにかく、このことを前哨基地と共有しておいたほうがよさそうだ。前哨基地にはもう軍は配備されたのか?」
ハンスは驚愕するエレノアに視線を向け、いつも通りの冷静な分析を交えて言い放つ。
「ええ、派遣されているはずよ」
急ぎ前哨基地へと向かう二人。
到着した前哨基地は、新たに配属されたばかりの兵たちで異様な慌ただしさに包まれていた。
見れば、兵たちは基地の一角に置かれたままになっていた大量の遺品を、慌てて王都へ運ぼうと荷馬車へ積み込んでいる最中だった。
「やはりな……」
それを見たハンスは、隣のエレノアに向き直り、己の確信を迷いなく伝えた。
「エレノア、この遺品は元々、ゼクスが王都へ運ぶと言っていたものだ。あいつはそれだけでなく、帝国の遺品も掘り起こしていたと聞いている。だから、あいつらはおそらく……そのすべてを抱えて、帝国側へ直接遺品を返しに乗り込んだんだ」
「は、はあ……っ!?」
エレノアは思わず軍人らしからぬ声を漏らし、呆然と口を開いた。
一国の英雄が、敵国である帝国へ単身、しかもよりによって婚約者のセシルを連れて遺品返還のために侵入するなど、軍事的な常識からすれば到底あり得ない狂気の沙汰である。
しかし、目の前にいるのは幼い頃から彼らをよく知るハンスだ。そして何よりエレノアの脳裏に浮かぶのは、あのどこまでも真っ直ぐで、呆れるほどに心優しき青年の笑顔だった。
「……あの男なら、有り得る、か……」
エレノアの胸に、確かな納得が落ちていく。
常識では測れない。けれど、誰よりも優しく規格外の彼なら、そんな無茶すらも本気でやり遂げてしまうのだろうと。
この驚くべき事実を深く胸に秘め、エレノアは基地の兵たちへトンネルの絶対的な警戒を厳命した。そして、残された遺品と共に、速やかに王国へと馬を走らせる。
──やがて、その報せは王都で待つ美月の耳へも届けられた。
「帝国へ……遺品を返しに……?」
涼翔の行方がわかり、相変わらず彼らしい優しい理由で動いていることを知り、美月はひとまず安堵の息を漏らした。しかし、すぐにその胸の奥を、どろりとした暗い感情が満たしていく。
「でも……セシルと、二人きりで……」
敵国という名の、王国の誰も追ってこられない完全な密室。
遮るもののない異郷の地で、大好きな人と四六時中、二人きり。
今この瞬間も、あの狡猾な女が涼翔の隣で、自分の知らない彼の顔を独占し、勝ち誇ったように笑っているのだ。
想像が頭をよぎった瞬間、美月の顔からすうっと血の気が引き、表情が完全に消え失せた。その瞳には、光を拒絶するような、昏く、深い陰りだけが、澱のように残されるのだった。




