絶たれた退路、紡いだ最も重い枷
「スーちゃんは──元の世界に、帰りたいの?」
異界の者を元の世界へと帰す手がかりを、貪るように探していたゼクスの横顔。その横顔と、彼を自分から引き離そうとする『歴史書』という存在を、セシルはじっと睨みつける。その瞳は、いつしかハイライトを完全に失い、底なしの沼のようにドス黒く濁っている。
「私と結婚するのに……今更調べて、帰りたいの?」
「セ、セシル……?」
ゼクスが思わず戸惑いの声を漏らす。だが、セシルの言葉は止まらない。
彼女はゼクスの服の裾を握りしめたまま、その小さな額をゼクスの胸元へと押し付け、じわじわと、退路を断つように言葉を紡ぎ出していく。
「お腹に赤ちゃんがもういるかもしれないのに……今更調べて……帰りたいの?」
「っ──」
ゼクスの息が、完全に止まった。
書物庫の空気が、一瞬にして物理的な質量を持ったかのように重く、息苦しく反転する。
お腹に、赤ちゃんが──。
セシルの口から飛び出したあまりにも衝撃的な言葉に、ゼクスの思考は完全にフリーズした。
記憶が、ゼクスの脳裏に鮮烈に蘇り、ドクンと心臓を大きく跳ね上げさせる。
本当に、もう宿っているかもしれないのだ。自分とセシルの血を引いた、新しい命が。
ゼクスをこの世界に、セシルという名の揺り籠に永遠に閉じ込めるための、あまりにも現実的で、あまりにも重い愛の枷。
(な……っ!?)
少し離れた場所で、二人のやり取りを完全に遮断されていたはずのラミルだったが、静寂に響いたセシルの声音の異質さに、本能的な恐怖で身を硬くした。
何を話しているのかまでは聞こえない。しかし、セシルの背中から立ち上る、周囲の光すら吸い込むようなドロドロとした暗黒の気配に、ラミルはただの「男女の痴話喧嘩」ではない、底知れぬ狂気の深淵を見ていた。
「ねえ、答えて、スーちゃん……。私を置いて、帰りたいの……?」
見上げるセシルの顔には、今にも泣き出しそうな、世界で一番可憐な歪んだ切なさが浮かんでいた。
その瞳の奥には、縋るような響きとは裏腹に、ゼクスがどうあがこうとも自分の掌から絶対に逃れられないことを確信しているかのような、冷徹極まりない、絶対的な静寂が潜んでいる。
ゼクスは、ただその重すぎる愛の問いかけに、縛り付けられたように立ち尽くすしかなかった。
本当は──美月と一緒に元の世界へ帰れたら、と。まだそんな甘い未練を抱いている自分が、心のどこかにいた。
けれど、セシルとの関係はもう、それを許さない。いや、決して許されてはならないのだ。
もし今、ここで自分が元の世界へ帰る選択をすれば、セシルと、そして彼女のお腹にいるかもしれない我が子は、どうなる?
自分と、そして自分の母親と同じ──あの、片親しかいない孤独で過酷な環境を、セシルとこれから生まれてくるかもしれない子供に強いることなど、絶対にできるはずがなかった。
「セシル……俺は……」
ぽつりと、ゼクスの口から掠れた声が漏れる。
そうだ。もう、目の前の女性を放り出して「帰りたい」と思うことすら、許されないところまで俺は来たんだ。いや、来させてくれたんだ。
「ごめん……セシル。さっきまで、帰れたらって思ってた。……けど、もうそんな資格、俺にはないよな」
ゼクスはゆっくりと両腕を回し、腕の中の小さな身体を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという強い意志を込めて抱きしめた。
「君を置いてまで帰れたらなんて思っていた俺を……俺自身が軽蔑するよ。本当に、ごめん」
「スーちゃん……」
「不安にさせてごめん。怖い思いをさせて、本当にごめん。……俺はもう、どこにも行かないよ。ちゃんと君を、一生大事にするから。だから……許してほしい」
ゼクスの胸に顔を埋めたまま、セシルはしばらくじっとしていた。
やがて、その小さな肩からすうっと力が抜け、ゼクスの背中に回された彼女の手が、嬉しそうにその衣類を掴む。
「スーちゃん……いいよ。許してあげる」
ゼクスに抱きしめられ、その広い胸に顔を埋めながら──セシルの唇は、歓喜に釣り上がっていた。
(やった……!スーちゃんが、自分から一生大事にするって言ってくれた……!これで、これで完全に、スーちゃんは私のもの……!あの小賢しい泥棒猫に、スーちゃんの心が戻ることは二度とない……!)
ゼクスからは決して見えないその位置で、セシルはハイライトのない瞳を妖しく光らせ、この世の何よりも昏く、歪んだ勝利の笑みを浮かべていた。
自らの手で退路を断ち、我が物となったこの男の温もりが、彼女のすべてを満たしていく。
「ちゃんと、私を幸せにしてね?」
顔を上げてゼクスを見上げた時には、その表情には先ほどまでの歪みなど嘘のように、みずみずしく愛らしい笑顔が咲き誇っていた。
「ああ、約束する」
歴史書が並ぶ静寂の書物庫で、二人は静かに誓いを交わし合う。
一方は贖罪と生涯をかけた愛の誓いを。
もう一方は、絶対的な獲物の完全捕獲を。
少し離れた場所で、ラミルはただ息を潜め、暗黒の沼のような愛に自ら呑まれていくゼクスの姿を、戦慄と共に見届けていた。
天災と称されるあの最強の化け物であっても、セシルという名の深淵の前では、抗うことすらできずに搦め捕られてしまう。
(あのゼクスさんすら支配する、セシル殿の狂気……。やはり、あの御方だけは絶対に敵に回してはならない……)
ラミルは背筋に走る強烈な悪寒を必死に堪えながら、ただ二人の生み出す異様な空間を、呆然と見つめ続けることしかできなかった。




