神域の調律、逃げ延びた案内人の正解
「ねえ、ラミルさん。残りの干し肉の処理とか、そっちの片付けはラミルさんたちに任せちゃっていいかしら?」
ふいに、セシルが鈴を転がすような声でラミルに微笑みかけた。
「スーちゃんはこれから畑を作らなきゃいけなくて、とっても忙しいから。お願いね?」
それはお願いという体の、明確な「ゼクスから離れろ」という命令だった。有無を言わせぬ圧力を肉体の芯で感じながら、ラミルはセシルの死角からゼクスが残りの広大な荒れ地へと視線を巡らせるのを見た。
「あ、ああ。分かった。ここにいる者たちと手分けして行おう」
「ありがとう、ラミル。助かるよ」
ゼクスが屈託のない笑みを浮かべてお礼を言う。ラミルはその温かさに救われつつも、慌てて数人の大人を引き連れて鉄板の片付けへと回った。
ゼクスはセシルを伴い、大要塞の隣にある広大な未開の地へと歩を進める。
一歩、足を踏み出し、おもむろにその両手を赤茶けた土の上へと突き下ろした。
──ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!
次の瞬間、地鳴りとともにゼクスの足元から、禍々しいほどに黒々とした「生命の土」が溢れ出した。それはまるで意志を持つ巨大な生き物のように、漆黒の津波となって荒れ地を猛烈な勢いで侵食していく。
何百年もの間、作物を拒み続けてきた呪われた赤茶けた大地が、瞬く間に呑み込まれていく。ゼクスの魔術によって生み出されたその土は、驚くほどフカフカで、湿り気を帯び、植物の命を全肯定するような圧倒的な豊穣の気配を放っていた。
「よし。この土なら、きっと作物もよく育つはずだ」
数時間前まで腰を抜かしていた民たちが、またしても始まった神業に作業の手を止め、呆然と口を開けている。
だが、ゼクスの常識破壊はそれだけで終わらない。ラミルが必死に集めてきた大量の『種芋』を受け取ると、彼は手際よくそれを適切な大きさに切り分けた。そして、手のひらをかざし、極小の風魔術を紡ぎ出す。
「な……っ!? 種芋を切ったげしまったらすぐに使えなくなる……!」
見守っていた一人の大人が思わず悲鳴を上げた。通常、切った種芋は日陰でじっくり乾燥させるか、灰をつけなければ腐って使えなくなる。
「大丈夫だから」
ゼクスは優しく微笑みながら、一瞬だけ風魔術の質を「調律」した。細胞を破壊する『切断の風』ではなく、切り口の余分な水分だけを優しく、かつ一瞬で蒸発させる『極小の温風』。超精密制御によって、種芋は傷一つつくことなく、完璧な乾燥状態へと仕上がっていく。
すぐに植え付け可能な状態になった種芋を、ゼクスは驚く民たちに手渡していく。
「さあ、みんなで植えていこう!」
「お、おう……! 灰もつけてないのに、切り口がもう乾いてやがる……!」
ゼクスの言葉に弾かれたように、民たちも総出でフカフカの黒土に種芋を植え付けていく。皆の手際もあり、広大な畑への植え付けはあっという間に終わった。
ふう、と息をついたゼクスが、今度は天を仰ぐ。
おもむろに右手を空へと掲げた次の瞬間、
────バリバリバリバリッ!!!
鼓膜を叩き割るような猛烈な爆音と共に、雲一つない青空へ向けて凶悪な紫電の束が何度も放たれた。
天を直接引き裂くような一撃。激しい衝撃波が荒れ地に荒れ狂い、地平線の彼方の山々にまでその大轟音が反響していく。
雷が空気を焼き、大地に大いなる恵み(窒素)をもたらす理。
「……っ!?」
片付けの処理を終えて様子を見に来たラミルは、そのあまりにも過剰で、無意味に見える破壊魔術の無駄打ちに肩を震わせた。
セシルの顔色を極力伺い、刺激しないように視線を泳がせながら、恐る恐るゼクスへと問いかける。
「ぜ、ゼクスさん……何をして、いるんですか? これでは兵が駆けつけてきます……っ」
「ん? ああ、こうするとね、作物が育ちやすくなるんだよ」
ゼクスは事も無げにそう言った。自然界の理を魔術で再現しているだけなのだが、常人から見れば神の気まぐれにしか見えない。
「スーちゃんはとっても賢いんだよ?」
意味がわからないという顔をしているラミルの隣で、セシルが誇らしげに胸を張った。
「こういう大きな魔術だけじゃないんだから。姿を消す魔術も、音を完全に消す魔術も、全部、全部スーちゃんが私に教えてくれたんだからね」
(姿を消し、音を消す魔術……あの暗殺に特化しすぎた異常な隠密魔術の源流も、やはりすべてこの男が……!?)
ラミルは改めて、目の前の男が持つ知識と力の底知れなさに戦慄した。
この男にとって、世界の理は文字通り『掌の上』なのだ。と同時に、その技術を完璧に使いこなして自分を退けたセシルの恐ろしさが、再び生々しく脳裏に蘇る。
(天災のような武力を持ちながら、一瞬で城を建て、豊かな畑を作り、隠密の極意すら掌握している……。この男は、本当に一体何者なんだ……)
全ての準備が終わった頃、地平線の彼方へと日は大きく傾き、荒れ地は美しい茜色に染まっていた。
だが、その静けさとは裏腹に、先ほどの雷鳴は確実に外へと波紋を広げていた。
帝国の守備隊がこの奇妙な落雷の光を捉え、動き出していた。
「ゼクス殿。私は本来なら、あなた方の邸宅へ同行し、警備および監視を続ける立場ですが……」
ラミルは一歩前に出ると、大要塞とそこに身を寄せる民たちを振り返った。
「ここに集まった民たちの安全を守るため、そして、万が一帝国兵が来た時の釈明の為、今夜はここの警備に就きたいと考えています。……私はここに残っても、構いませんか?」
それは皆を想う言葉であると同時に、セシルという名の深淵から、物理的に距離を置きたいという本能的な自己防衛でもあった。
「ええ、もちろん!」
ゼクスが口を開くより早く、セシルが二つ返事で快諾した。その顔には、今日一番のみずみずしく、邪気の欠片もない美しい笑顔が咲き誇っている。
「じゃあ──今夜は、スーちゃんと二人っきりだね!」
(──気が利くじゃない。あなたはずっとそうやっていたらいいんだよ?)
ラミルの見事な『空気読み』に対し、セシルの瞳の奥で、ドロドロとした狂気の満足感が蠢く。
セシルは嬉しそうにゼクスの腕に抱きつき、その少女特有の甘い声を荒れ地に響かせた。
ラミルは、己の選択がセシルの「正解」だったことを悟り、背中に走る安堵の鳥肌を必死に堪えながら、深く頭を下げたのだった。




