温和なる和解と深淵からの割り込み
──それから、およそ三時間が経過した頃。
「ゼクス殿、セシル殿……っ! 遅くなって、申し訳……ありません……っ」
泥と絶望が支配していた荒れ地に、息を切らせたラミルの声が響き渡った。
彼女の背後には、怯えたように身を寄せ合う、行き場を失っていた数十人の民。端から見れば十分な早業であったが、ラミル自身は、衣服を泥にまみれさせながらも、約束通り両手に重い袋──大量の『種芋』を必死に抱え込んでいた。
別れ際にセシルから突きつけられた、あの皮膚が裂けそうなほどの狂気的な殺意。
(もし遅れたら、あの女に何をされるか分からない……!)
そんな本能的な恐怖に突き動かされ、ラミルは文字通り死に物狂いで周囲を駆けずり回り、これだけの人々と物資を短時間でかき集めて戻ってきたのだ。
「あ、ラミルさん! 凄い、こんなにたくさんの種芋を集めてきてくれたんだね」
大要塞の前で待っていたゼクスが、駆け寄ってくる。
すでに近くの荷車と、ゼクスが作ったであろう台の上には、彼が数時間で狩り終えたのであろう大量の野鳥が、綺麗に羽を毟られ、内臓を処理されて並んでいた。さらに、何台もある窯の上に置かれた大きな鉄板からは、じゅうじゅうと肉の焼ける音と共に、暴力的なまでに香ばしい煙が立ち上っている。
「ラミルさんってとっても優秀な人なんだね。スーちゃんのお手伝いをこんなに頑張ってくれるなんて、私、感激しちゃった」
ゼクスの後ろから、トコトコと可憐な足音を立てて歩み出てきたセシルが、満開のひまわりのような笑顔でラミルを労った。
「──っ」
その純粋無垢な響きとは裏腹に、セシルの瞳の奥に灯る冷徹な光。
ラミルにとって、この場所は別の意味で「一歩も気の抜けない戦場」になろうとしていた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、まだー?」
その時、あまりにも香ばしい匂いに待ちきれないとばかりに、大要塞の中から子供たちがひょっこりと顔を出した。お腹を空かせた彼らの瞳は、鉄板の上の肉に釘付けになっている。
「ふふ、できたよ! いっぱいあるから、みんな喧嘩しないで順番に食べてね」
ゼクスとセシルは顔を見合わせ、包容力に満ちた笑みを浮かべながら、焼き上がったばかりの肉を次々と民へと振る舞い始めた。
泥に汚れ、今日生き延びることすら諦めかけていた子供たちや大人たちが、恐る恐るその肉を口に運ぶ。
「……美味しい……!」
「おいしい、おいしいよぉ……っ!」
口々に上がる震えた声。
次の瞬間、彼らの目からは大粒の涙が溢れ出していた。
彼らにとってこれはただの食事ではなかった。彼らが世界の理不尽によって奪われ、もう手に入らないと絶望していた「人の温もり」そのものだった。
要塞の前に広がる、涙と救済の光景。それを見つめていたラミルの目からも、いつしか熱い涙がボロボロと溢れ落ちていた。
(よかった……本当に、よかった……)
かつての自分と兄貴と同じ。
ゴミのように見捨てられた人々。だが、目の前の「怪物」と恐れられていた男は、彼らに家を与え、こうして温かい食事を分け与えている。
「ラミルさんも、突っ立ってないで食べて」
不意に、ゼクスが肉の乗った皿を差し出してきた。
「あ……感謝します、ゼクス殿」
受け取り、口に含む。皆と囲み味わうその肉は、ラミルがこれまでの人生で食べたどんな料理よりも、深く、温かく、美味しく感じられた。
(兄貴……私達は、この男と最初から、敵としてではなく、ちゃんと『話』をしていればよかったんだ……)
亡き兄が脳裏をよぎり、胸を締め付ける。もし、帝国が最初から王国と、彼と、対話を選んでいれば誰も死なずに済んだのかもしれない。
そんなラミルの感傷を察したかのように、ゼクスがふいに真剣な、どこか痛みを堪えるような声で彼女に話しかけた。
「……ラミルさん。お兄さんのこと、本当にごめん。俺が、君の兄さんを……。どうしても気になって、さっき子供たちに聞いたんだ……俺が、君の大切な家族を……」
ゼクスは沈痛な面持ちで拳を握りしめていた。
どれほどの力を得ようとも、どんな状況だろうと、奪ってしまった命への罪悪感を、この男は傲慢に忘れることなどできないのだ。
ラミルは、その言葉だけで救われるのを微かに感じながら、静かに首を振った。
「……いいえ。あれは、帝国が仕掛けた戦いでした。私達は返り討ちに遭っても文句の言えない侵略だったのです。……私の方こそ、あなたをただの残虐な怪物だと誤解していた。どうか、私の無礼を許してほしい」
ラミルは心からの悔恨と敬意を込め、ゼクスに向かって右手を差し出した。
差し出された細い手を、ゼクスは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに過去の因縁を溶かすような、安堵の柔らかい笑みを浮かべ、その手をしっかりと握り返す。
「ありがとう、ラミルさん」
「これからはラミルと呼び捨てでいいですよ。こちらこそありがとうゼクス殿」
「俺のこともゼクスでいいよ」
お互いの名前を呼び合い、固い握手を交わす二人。過去の血生臭い仇怨を超え、二人の心が本当の意味で繋がった──そのあまりにも美しい救済の瞬間。
──ガシッ!!!
「えっ!?」
空間が物理的に歪んだのかと錯覚するほどの凄まじい力で、ゼクスの右手が強制的にひったくられた。代わりにその腕へ、強引に、凄まじい熱量と狂おしい重さで絡みついてくる影があった。──セシルだ。
「ラミルさん、女の子なんだから、そんな熱い『男の友情』みたいなの……ちょっと、イヤだよね……?」
ゼクスの二の腕に自らの胸をこれでもかと押し付け、世界一愛らしい、脳が蕩けるような甘い声を出しながら──セシルは、ゼクスの死角からラミルだけを、文字通り「蛇が獲物を一撃で仕留める前」のような、ドロドロとした致死量の殺気を宿した眼差しで射抜いていた。
(……いつまでスーちゃんの手を握っているの? 毟りとられたいのかな、その生意気な手。名前を呼び捨て? その口、縫い付けてあげようか?)
笑顔の仮面の裏側で、セシルの両眸がドス黒い嫉妬と独占欲で沸騰する。
声にならない呪詛が、ラミルの脳裏へ直接冷徹な杭となって打ち込まれた。
「あ、あ、ああ……そ、そうだな。すまない……!」
ラミルは全身の毛が逆立つような恐怖に襲われ、大慌てで一歩後ろへ飛び退いた。
ゼクスという、あまりにも優しく巨大な「光」。しかし、その光に少しでも近づこうとすれば、背後に控えるセシルという名の「底なしの闇」に一瞬で細切れにされる──。
「ふふ、ねー、スーちゃん♪ お肉、冷めないうちに早く食べよ?」
「あ、ああ……セシル……?」
何事もなかったかのようにゼクスに頬を寄せ、可憐に微笑むセシルを見ながら、ラミルはブルブルと震える指先を隠すように、己の胸元を強く抑えるしかなかったのだった。




