可憐な少女の消失、勘違いの許されぬ
「ふ、ふん……。強大な武力のみならず、我が帝国が幾世代にもわたり積み上げてきた知識までをも欲するか。どこまでも強欲なことだ」
皇帝は、額ににじむ冷や汗を不自然に思われぬよう指先で拭いながら、王としての威厳を保つためにあえて傲慢な笑みを浮かべてみせた。
この怪物の底知れぬ要求が、これ以上の領土や権力ではなく、ただの『知識欲』に留まったのだ。
ならば、ここで出し惜しみをして機嫌を損ねる実利などどこにもない。
「よかろう。帝国の蔵書、禁忌の書も含めてすべて、そなたの閲覧を許可する」
「ありがとうございます。受け入れていただけて、本当に感謝します」
ゼクスは小さく頭を下げ、純粋な安堵の息を吐き出した。
(……よかった。これで、元の世界へ帰るための、確かな手がかりが見つかるかもしれない)
その胸の内に宿る切実な希望。
だが──その瞬間、ゼクスの隣で、セシルの瞳の奥の光が、スウと不穏に昏んでいく。
「では、これにて。今後の我が帝国と王国の、永きにわたる繁栄と不戦の誓いを願い、この謁見の幕を閉じよう」
皇帝は厳かに宣言すると、傍らに控える参謀へと視線を向け、冷徹な政治家としての指示を飛ばした。
「ゼクス殿には帝都の離れの邸宅を用意せよ。それと、行き場を失った者たちを集めると言っていた施設については、帝都の外れにある広大な土地を明け渡すよう手配を。──案内役には、ラミル。そなたが立て」
床に伏したままのラミルに、皇帝の鋭い視線が突き刺さる。
それは、実質的な監視役の任命であった。
唯一の敬愛する対象であった拓真の指導役を解かれ、彼の側から引き離される悲しみ。そればかりか、あろうことか己の魂を救い、同時に兄の命を奪ったはずの仇の身の回りを世話せよという。
整理のつかない複雑な感情が、ラミルの胸中を激しくかき乱す。仇であるはずの男を、これ以上どう憎めばいいのかすら分からなかった。
ラミルは震える拳を握り締め、どうにか感情を押し殺した声で応じた。
「……御意。謹んで、大命を拝命いたします」
ラミルはゆっくりと立ち上がり、ゼクスたちの前へと歩み出る。
「では、これにて失礼します」
ゼクスは、未だに何が起こるか分からない玉座の間の空気を警戒し、いつでも動けるよう、セシルの細い腰に手を添えたまま、少しだけ己の体へと引き寄せた。
ここまでついてきてくれた婚約者を守るための、隙のない紳士的なエスコートであり、同時に周囲への無言の威嚇でもある。
だが──その力強い温もりと、引き寄せられた拒絶のない密着感。
それを肌で感じた瞬間、セシルの心は歪な全能感で満たされ、その唇が恍惚とした弧を描いた。
(ああ、やっぱりスーちゃんは私だけの王子様だよね。私を守ってくれてる──)
玉座の間を退出する一同。前を歩いて案内するラミル。その後ろを、セシルの腰をしっかりと抱いたまま歩くゼクス。
ゼクスが前方の警戒に意識を向け、ラミルの背中を見つめた──その刹那。
セシルは、それまで纏っていた「可憐な微笑み」を、跡形もなく完全に消し去った。
──ピキッ。
前を歩いていたラミルの背筋に、突如として、心臓を直接凍り付かせるような凄まじい悪寒が走った。
戦場で数々の死線をくぐり抜けてきた隠密としての本能が、最大級の警鐘を鳴らしている。
あまりの殺気と、肌を刺すような絶対的な冷気に、ラミルは息をすることすら忘れ、思わず足を止め、恐る恐る振り返った。
そこにいたのは、この世の誰よりも冷徹で、暗黒の深淵のような瞳で自分を見下す、セシルの姿だった。
感情の抜け落ちたその顔は、まるですべての生命を拒絶する氷の彫刻。
ゼクスに向けられていた甘い体温など微塵も感じさせない、地の底から湧き上がるような純度の高い狂気が、無言のままにラミルの五感を支配し、その精神ごと硬直させる。
(……さっき、私のスーちゃんを見て泣いてたよね?)
声にはならない、けれど確実に脳裏へと直接流し込まれるような、セシルの歪んだ独白。
己の心の奥底を強制的に暴かれ、蹂躙されるような恐怖がラミルを襲う。
(勘違いしないでね。スーちゃんが優しいだけなんだから。その綺麗な目、次もスーちゃんに向けたら──わかってる?)
もし次があれば、その双眸ごと魂を抉り出す。
言葉はなくとも、セシルの瞳の奥に宿る絶対的な捕食者の意思が、そう告げていた。
セシルにとって、ゼクスに色目を使う(ように見える)女は、それがどんな者であろうと、どんな悲劇的な理由があろうと、すべて等しく排除すべき「害虫」でしかないのだ。
「っ……、あ……」
ラミルの喉が、以前、敵として対峙したときは比べ物にならない程の殺気への恐怖から小さく引き攣った。
あの戦場での殺気が、ただの邪魔者を排除するための『冷徹な作業』だったとするならば、今、背中から突き刺さるこれは、己の不可侵領域を侵そうとする者を絶対に細切れにして排除するという、悍ましいほどの『狂執』。
山脈を穿ったゼクスが、抗う術のない『天災の怪物』なら、その隣で微笑むこの少女は、人の心を内側からなぶり殺す『捕食者』だ。
兄の仇への複雑な葛藤など、その圧倒的な狂気の前には一瞬で吹き飛んだ。
ただひたすらに、背後から向けられる冷たい視線に蛇に睨まれた蛙のように硬直しながら、ラミルは冷や汗を流し、震える足で前を進むことしかできなかった───。




