悔恨の願い、融解する憎悪の涙
「よ、よかろう……。その条件、我が帝国としても……拒む理由はない。いや、損はなく得しかない話だ」
皇帝は喉の渇きを潤すように生唾を飲み込み、どうにかそれだけの言葉を絞り出した。
鉱物資源は豊富だが慢性的な食糧難に喘ぐ帝国と、豊かな大自然の恵みを受ける豊穣の王国。その二国が対等に交易を結ぶことは、互いの国益を考えれば願ってもない最良の選択である。
「早急に、資源の流通、および民の交流に関する法を整備させよう」
彼らにとってゼクスの提案は、最悪の死刑宣告を待っていたら突然、極上の特級配給を差し出されたようなものだった。
罠か、それともこちらの度量を試す高等な心理戦か。
深読みすればするほど、ゼクスという底知れぬ怪物の輪郭が、聖者の後光を纏って巨大化していく。
「ありがとうございます。受け入れていただけて安心しました」
ゼクスはホッとしたように小さく笑みをこぼす。そのあまりにも無邪気で、無害な少年のように純粋な笑みに、帝国の重鎮たちはかえって背筋が寒くなるような錯覚すら覚えた。
この男の「安心した」という言葉の裏には、もし拒絶されていれば今度こそ帝国を消し去っていたのではないか──という、裏返しの恐怖が張り付いているからだ。
参謀も、未だに信じられないといった様子で何度も瞬きを繰り返していたが、どうにか現実的な「政治家」の頭に切り替え、眉をひそめて今後の課題を口にした。
「……ですが、交易を行うとなれば、両国を隔てるあの広大で険峻な山脈が、あまりにも大きな障害となりますな。あの過酷な山越えでは、一度に大量の物を運ぶことは不可能です。そこが今後の大きな課題ですな」
それは、両国が何世代にもわたって直面してきた、地政学的な絶対の壁だった。
だが、ゼクスは何でもないことのように、あっさりと微笑んでみせた。
「ああ、それなら心配いりません。今回、俺たちはあの山の中を一直線に荷馬車で走ってこれる『穴』を作りながら来たので。それをそのままにしておきますから、自由に使ってください」
「「「「…………は?」」」」
玉座の間の一同の声が、完璧に重なった。
穴を、作りながら来た?
それも、国境を遮るあの広大で巨大な岩山を、荷馬車が一直線に通れるほどの穴を、だと?
「ははっ! どうやってあの短期間で、あれだけの物資をここまで持ってこれたのかと思えば……そういうことか!」
あまりのスケールの桁違いっぷりに、将軍バレルが、ついに堪えきれずに乾いた爆笑を上げた。その傍らで、ゼクスに腰を優しく抱き寄せられたままのセシルは、「どう? 私のスーちゃん凄いでしょ?」と言わんばかりに、上目遣いの甘い表情から一転、これ以上なく誇らしげに胸を張っている。
しかし、バレル以外の皇帝、参謀、あるいは魔術師団長ハロルドたちは、笑うことすらできず、またもや突きつけられたゼクスの「人間の枠を超えた非常識な所業」の前に、魂が抜けたように硬直するしかなかった。
山脈に風穴を開けるなど、人間の領分ではない。それは世界を造り替える『天災』そのものの所業だ。
「……っ、し、して……ゼクス殿。願いは三つあると言っていたな」
皇帝は、未だに震えそうになる声を必死に喉の奥で抑え込み、冷や汗を拭いながら次の「願い」に身構えた。
一つ目がこれほど無欲でありながら、その裏にとんでもない規格外の土木魔術を隠していたのだ。ならば、本命である二つ目か三つ目で、必ず何か国を揺るがすような恐ろしい要求をしてくるはずだ、と。
再び、張り詰めた静まり返る玉座の間。
ゼクスは立てていた指をもう一本増やし、それまでの穏やかな表情から一転、沈痛な面持ちで真っ直ぐに皇帝を見つめた。
「二つ目ですが……。ここへ来る途中、戦争によってなのか、行き場を失った人たちをたくさん見かけました。……小さな子供たちまで、飢えに震えていました。どうか、その子たちを救ってください。──俺にできることなら何でもするので……いくらでも協力させてください」
「っ……!」
ゼクスの口から厳かに告げられたその純粋な願い。しかし、国境の山脈を容易く穿つ『怪物』が「何でもするから協力させろ」と言ったのだ。それは帝国側にとって、一分の妥協も、誤魔化しも許されない絶対の厳命に等しかった。
皇帝たちはその無言のプレッシャーに息を呑む。
だが──床に膝をついたままのラミルだけは、別の衝撃に驚愕のあまり大きく目を見開いていた。
目の前にいる銀髪の青年は、ラミルの最愛の兄を無残に屠った仇そのものである。
だが……今、彼が口にした「願い」は、かつて亡き兄がラミルと交わした、あの切実な誓いそのものだった。
『いつか必ず、この国から行き場のない孤児たちをなくす。そのために俺たちは強くなって、この帝国でのし上がってみせる』
兄が命を懸けて目指し、最高峰の隠密部隊の頭になっても、国家、土地の不条理に阻まれて叶えられぬまま潰えたはずの悲願。
帝国を支配する覇王や重鎮たちが、とうに切り捨て、見向きもしなかった最底辺の弱者たちの命。
それを、兄の命を奪ったはずの『怪物』が、今、己の特権を投げ打つようにして、最優先の願いとして救いを請うている。
(どうして……どうして貴方が、兄さんの言葉を言うの……っ?)
消えることがなかった憎悪は、ゼクスから溢れ出す底なしの慈悲の前に、拠り所を失って霧散していく。
仇のはずの男の後光に、亡き兄の面影が美しく重なった。
あまりの理不尽さと、それを遙かに上回る圧倒的な聖者としての器の大きさに、ラミルの心は激しく震え、ただ涙を浮かべてゼクスを見上げることしかできなかった───。




