無邪気な皆殺し、あるいは理不尽な慈悲
「そうだ! ねぇ、スーちゃん。今、ここで全員殺したらどうかな? それでも戦争は終わると思うよ?」
鈴を転がすような愛らしい声音で、セシルはあまりにも悍ましい提案を口にした。
先ほど拓真を治癒するためにゼクスの腕から降りた彼女は、今はその腰に手を添えられ、スーちゃんにおねだりをするように、愛おしげに上目遣いで甘えるその可憐な仕草。
小首を傾げて無邪気に笑う彼女の氷の瞳には、玉座の間にいる帝国の重鎮たちの命など、路傍の虫ケラほどにも映っていない。
──だが、誰もそれを「少女の戯言」だと笑い飛ばすことはできなかった。
常人の目では知覚することすら不可能な、あの拓真の超高速の攻撃を完璧に見切り、一瞬で完封してみせた銀髪の青年。
彼ならば、セシルの言う通り「この場にいる全員を今ここで皆殺しにする」ことなど、容易く成し遂げてしまうだけの絶対的な力がある。
ゾクッ、と玉座の間を満たす、文字通りの死の気配。
ゼクスの正面で平伏する参謀も、今にも剣の柄を叩き割りそうだった騎士団長ダルムも、全身に冷や汗をたらしながら、本能的な恐怖に突き動かされるようにして一斉に臨戦態勢をとった。
応じなければ、次の瞬間に首が飛ぶ──そんな極限の緊張感が空間を支配する。
張り詰めた空気の中、ゼクスが静かに左手を上げた。
「セシル、俺は無駄に命を奪いたくないんだ」
隣に寄り添う少女へ向けて、ゼクスはどこまでも優しく、穏やかな声音で語りかける。
しかし、その言葉は、拒絶の姿勢をとる帝国軍の耳には、どんな怒号よりも恐ろしい脅迫として響いた。
(……できない、のではない。ただ、この男の意志一つで、いつでも『生かされ、殺される』のだ)
その場にいる誰もが、骨の髄までそう理解させられていた。
「そっかぁ。スーちゃんは、本当に優しいもんね」
(ふふ。これで分かったかな? 分かったら、二度とスーちゃんに歯向かわないでね?)
セシルは嬉しそうに目を細め、ゼクスの胸にトントンと愛らしく頭を預ける。その愛らしい口調とは裏腹に、周囲に向けられた視線は冷徹そのものだった。
その様子を見届けたゼクスは、視線を正面へと戻し、恐慌状態にある皇帝や参謀たちに向けて言葉を続けた。
「処刑の必要はありません。こちらこそ、己の怒りのままにこのような真似をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「っ……!」
ゼクスから告げられたまさかの謝罪の言葉に、ラミルとイレイアの顔に、地獄の底から救い上げられたような安堵の表情が広がる。
二人の背中を、どっと冷や汗が伝い落ちていった。
だが、ゼクスが放つ有形無形のプレッシャーは、それで終わりではなかった。
ゼクスは床に転がる勇者を冷徹に見下ろす。
「ただ……拓真には、重々言っておいてください。『次はない』、と」
それは、先ほどまでの穏やかさが嘘のような、背筋が凍りつくほど低く、地を這うような声音。
一切の感情を排したその眼差しは、ただ一睨みで帝国最強の勇者を精神ごと圧殺せしめんとする、絶対的な強者のそれだった。
言い放つと同時に、ゼクスは右手を無造作に払う。
──『アクアブレッシング』。
放たれたのは、ただの水流。しかしそれは、極限まで圧縮され、研ぎ澄まされた、絶対的な切断の刃。
キィィィン、と鼓膜を震わせる高周波の音と共に、拓真の身体を床に完璧に縫い付けていたあの強固な鋼鉄の拘束具が──まるでチーズでも切るかのように、音もなく、正確無比に切断されて四散した。
刃物ですらない、ただの「水」が、最高硬度の鋼鉄を容易く切り裂くという、あり得ない魔術の精度。
そして、静かに告げられた絶対的な警告。
その場にいた全員が、今度こそ完全に言葉を失い、一様に底知れぬ恐怖に身震いした。
「……っ、此度の、此度の寛大なるお言葉……深く、深く感謝いたします……!」
参謀が額を床に擦り付けながら、消え入りそうな声で感謝を絞り出す。
玉座に佇む皇帝は、己の震える手を見つめながら、改めて確信していた。
(この男に……この『ゼクス』というバケモノに敵う者など、この世界には存在しない──)
完全なる敗北と、圧倒的な力の差を魂に刻み込まれた皇帝は、せめてもの誠意を示すように、深く息を吐き出して声を張り上げた。
「……では、首を撥ねぬ代わりに、何かそなたの願いを聞こう。帝国が用意できるものであれば、如何なるものでも構わぬ」
皇帝はそこで一度言葉を切り、自嘲気味に口元を歪めながら、鋭い参謀の視線を取り戻してゼクスを見据えた。
「そして──我が帝国の不手際によって有耶無耶になりかけていたが、そろそろ和平交渉の『本題』に入っても構わぬか?」
嵐のような暴虐の時間が過ぎ去り、ようやく本来の目的に戻った謁見の間。
ゼクスはセシルを守るようにその肩を抱き直すと、何事もなかったかのように淡々と、静かに微笑んで「ええ。構いません」と首を縦に振った。




