無垢なる優しさ、針のむしろの数刻
「では、これより私が直々に陛下へ上奏してくる。……ハロルド、貴様にはここでゼクス殿の『おもてなし』を任せたぞ。決して、決して失礼のないようにな!」
太った宮内大臣はそう一方的にまくし立てると、事実上の「怪物のお目付け役」という最悪の貧乏くじをハロルドに丸投げし、大慌てで部屋を飛び出していった。
国家の命運がかかっているとはいえ、あの怪物と同じ空間にいる恐怖に、これ以上耐えられなかったのだろう。
宮内大臣が遺品を持った兵士たちを引き連れ、バタン、と重厚な扉を閉めて部屋を後にする。
主の消えた執務室に、重苦しい沈黙が訪れた。
「ふぅ……」
バレル将軍は、ようやくここまで漕ぎ着けたかと言わんばかりに小さく一息ついたが、残されたハロルドはそれどころではない。
文字通り生きた心地がしていなかった。
それでも、帝国の魔術師団長としてのプライドを必死に奮い立たせ、引きつった笑みを浮かべながらゼクスたちへと座るよう促す。
「……ど、どうぞ、そちらのソファーへおかけください」
ハロルドのそのあまりの硬直ぶりと、ダラダラと流れる冷や汗を、ゼクスは敏感に察知していた。
元はと言えば自分たちが急に押しかけたのが原因だ。
少しでもこの張り詰めた空気を和らげたいと、ゼクスは100%の純粋な善意と気遣いから言葉をかけた。
「あの……僕たちに敵意はありませんから、ハロルドさんもバレルさんもそこに座ったらどうですか?」
不意に突きつけられる、その無垢なる優しさ。
だが、ハロルドにとっては凶刃を突きつけられているかのようだった。
「い、いや! 私は結構だ……! 宮内大臣が不在の間、ここで貴殿らの護衛を務めるのが私の職務ですのでな……っ!」
ハロルドは直立不動のまま、引きつった笑みを浮かべてそう辞退した。
座って寛げるはずがない。
いつその『善意』が、些細な不手際で『天災』へと反転するか分からないのだ。
彼はただ、冷や汗を流して固まることしかできなかった。
そんなハロルドをよそに、「ならば、遠慮なく」と応じて堂々とゼクスの正面に腰を下ろすバレル。
この数日の寝食、そして此度のゼクスの行動を経て、バレルはゼクスという男の誠実さをすっかり信用していた。
だが、そんなバレルにとっても、どうしても慣れぬものがあった。
対面に座れば、ゼクスの隣に否応なしに目が移ってしまう。
あの怪物を完全に骨抜きにしている、あまりにも場違いな甘い空間にだけは、歴戦の将軍といえど居心地の悪さを禁じ得なかった。
その視線の先のセシルはといえば、そんな男たちの、男たちにしかわからない極限の緊迫感を他所に、一切我関せずという様子だった。
ゼクスの腕に引き寄せられ、頭を彼の胸に預けてこれみよがしに身体を寄せながら、頬を染めてニコニコと上機嫌に囁きかける。
「ねえスーちゃん、無事に和平ができたら、私達、王国と帝国の歴史に残る有名人になっちゃうかもね」
(……この女、この状況で正気か……?)
ハロルドの視線が、場違いなほど可憐に笑う少女へと向く。
敵国の心臓部で、帝国の高官を蛇に睨まれた蛙のように恐怖させながら、恋人との明るい未来を楽しげに語る少女。
何よりハロルドが戦慄したのは、その可憐な声とは裏腹に、時折向けられる、セシルの氷のように冷たく濁った瞳だった。
『余計な真似をしたら、どうなるか分かってるよね』とでも言いたげな、温度のない瞳でこちらを射抜いてくる。
ハロルドは、ゼクスとはまたベクトルの違う、このセシルという女の底知れなささと異常性に、別の意味でも戦慄を禁じ得なかった。
──それから、ハロルドにとって気の遠くなるような数刻が流れた。
ガチャリ、と執務室の扉が開く。
「お待たせしました……!」
戻ってきた宮内大臣の顔は、緊張と興奮のあまり赤く上気していた。
彼はゼクスたちの前に歩み寄ると、ごくりと唾を飲み込み、震える声を精一杯に整えて告げる。
「ゼクス殿、セシル殿、そしてバレル将軍。……陛下がお待ちです。これより皆様を、謁見の間へ案内します」
大臣は一度言葉を切り、部屋の全員を見据えた。
「……我がガラルド帝国と、エルメリア王国の未来を賭けた、歴史的な瞬間になるでしょう」
ついに舞台は整った。宮内大臣の先導により、バレル、ハロルド、指示を受けた直属の兵たち、そしてゼクスとセシルは、この国の最高権力者が座す、最深部へと歩み出した。
──そして。
城の最深部、そびえ立つ一対の巨扉が、重々しい地鳴りのような音を立てて左右へと開かれた。
溢れ出してきたのは、これまでゼクスが肌で感じてきたどの場所とも違う、圧倒的な『威厳』と、冷徹なまでの『静寂』。
左右に整列した無数の近衛兵たちが放つ、一糸乱れぬ無言の圧迫感。その遥か一直線の奥、光と影が交錯する玉座の間に、ガラルド帝国の絶対君主たる『皇帝』が、すべてを見通すような冷徹な眼光を湛えて鎮座していた。
常人であればその空気の重さに息を呑み、膝を屈するであろう、帝国の心臓。だが、銀髪の青年──ゼクスは、瞳に誠実な光を宿したまま、何に怯えることもなく、ただ静かに、その最初の一歩を踏み出した──。




