恐怖の誤認、蔓延する桃色の空気
静まり返る宮内大臣の執務室。ハロルドが恐怖のあまり無様に後ずさる中、銀髪の青年──ゼクスが静かに、しかし確かな意思を持って一歩前へと踏み出した。
その場にいるハロルドと宮内大臣は身構え、最悪の事態を想定して息を呑む。次の瞬間──。
王国の怪物の異名を持つ青年は、深く、深く頭を下げた。
「たくさんの人の命を奪い……本当に申し訳ありませんでした。……本日はバレル将軍に和平交渉の提案を受け、参りました」
真摯な言葉。あまりにも無防備に平伏する姿。宮内大臣とハロルドは完全に硬直した。
帝国を滅ぼしかねない、あの「王国の怪物」が、戦争の渦中だというのに自らの非を認めて頭を下げている。
その前代未聞の事実が、老練な二人の理解の範疇を完全に超えていた。
沈黙を破るように、バレルが重厚な声で言葉を補足する。
「数日前のことだ。ゼクス殿はたった二人で、我が前哨基地へと足を運ばれた。抱えきれぬほどの遺品と、果てなき謝意を届けるためにな。それだけではない。ゼクス殿は、散っていった我が帝国兵の亡骸をも、自らの手で手厚く大地に埋葬してくださった。……この御方は、心から平穏を望んでおられる」
バレルはハロルドと宮内大臣を真っ直ぐに見据え、言葉に一層の熱を込めた。
「なればこそ、我らは王国と『五分五分』の関係で和平を結び、共に歩んでいけるのではないかと考えた。我が提案が罠ではないかというゼクス殿の懸念を晴らすためにも、そのまま、帝都へ事前報告をせず、彼らをここまでお連れした次第だ」
バレルが口にした「五分五分」という言葉。
あえて強調されたその響きに、ハロルドと宮内大臣は瞬時にその真意を悟った。
(五分五分だと……!?)
数日前、自分たちは皇帝の御前で「どれほど不利な条件になろうとも即座に降伏、和平を申し入れるべきだ」と苦渋の決断を下していたのだ。
帝国側が圧倒的に不利な状況であるにもかかわらず、相手は国を奪うでもなく「対等な和平」を望んでいるという。
宮内大臣の脳裏に、これが罠なのではないかという官僚特有の疑念がよぎる。しかし、それ以上に、滅亡の危機に瀕した帝国にとって、これ以上ない救国の一手であることもまた事実だった。
宮内大臣は、ダラダラと流れる冷や汗を拭いもせず、息を整えて声を絞り出した。
「なるほど……まずは頭を上げてください、ゼクス殿。……バレル将軍の言う通り、これが真実であれば、今回の件は法を曲げてでも『緊急特例』として陛下へ取り次がねばならなさそうじゃ」
「ああ……和平が成立するのであれば、私が今ここで大臣と話していた帝都の防衛軍再編も、すべて白紙に戻りましょう。よくぞ、たった二人だけでここまで足を運ぶ決断をしてくれた。……いや、その必要がなかった、と言うべきか」
ハロルドは苦渋を滲ませながらゼクスへと視線を向けた。
騎士団副長バザレクと多数の兵を失った無念は消えない。だが、目の前の怪物の『狂気じみた善意』に異を唱え、その牙を再び帝国に向けさせることだけは、何があっても避けねばならない。
それ以上の戦慄が彼の魔術師としての本能を支配し、冷徹な確信を深めさせていた。
(……そうだ。この男は、たった二人で敵国の心臓部に乗り込んできても、絶対に自分たちは死なない、いつでも全員を皆殺しにできるという『圧倒的な自信』があるからこそ、平然とここに立っているのだ。……やはり此奴は、底の知れぬ天災でしかない)
ハロルドが内心で再び戦慄していることなど露知らず、ゼクスはただ、誠意が伝わったことに心からの安堵の息を漏らした。
「ありがとうございます」
「よかったね、スーちゃん!」
張り詰めていた室内の空気を一瞬で弛緩させるような、甘ったるい声が響く。
隣で腰に手を添えられて立つセシルが、ゼクスに嬉しそうに頬擦りをして、これ以上ないほど幸せそうに甘え始めたのだ。
この大国の最高幹部たちが冷や汗を流し、血の気を引かせてひれ伏している極限の緊張感。それが、セシルにとっては愛しい青年をさらに際立たせるための最高のスパイスでしかなかった。
(私のスーちゃんは、やっぱり世界で一番強くて格好いい。王都でスーちゃんの帰りが遅くなって、今も惨めに泣いているはずのあの泥棒猫とは違う。私は今、世界を恐怖させているスーちゃんに抱き寄せられてる──)
歪んだ独占欲とマウントの愉悦に胸をいっぱいに満たしながら、少女は場違いすぎる桃色の空気を撒き散らす。
その姿にバレルは苦笑し、宮内大臣とハロルドは、何とも言えない複雑な表情で固まるしかなかった──。




