交錯する思惑、平穏への打算
己のこの行動が、軍人として、そして帝国の将としてどれほど常軌を逸しているかは百も承知だった。
一歩間違えれば、帝国の喉元にこの化け物を手引きしたとして、国家反逆罪に問われても文句は言えない。
されど──この、底なしの、狂気じみた善意の塊のような青年であれば。
この男の存在は、必ずや我が帝国にとって破滅ではなく、大いなる利益をもたらすはずだ。
あの日、ゼクスの理不尽なまでの力をまじまじと見せつけられた夜、我ら将官たちの総意は一つだった。
『王国に対し、たとえ我が帝国にとってどれほど不利な条件であろうとも、今すぐ和平を申し出るべきだ』
全軍を賭しても勝てない怪物を敵に回し続けることなど、国家の自殺行為でしかないからだ。
ならば、この怪物が軍に属さず、こうして「個人」として目の前に現れた今こそが、帝国を救う最初で最後の、絶対の好機。
バレルはゴクリと乾いた喉を鳴らし、重い口を開いた。
「ゼクス殿、帝都へ行き、我が国の皇帝に会っていってはくれぬか?」
「……俺が、ですか? なぜ俺が皇帝に……」
突然の申し出に、ゼクスは今度こそ心底困惑した表情を浮かべ、眉をひそめた。
だが、バレルはゼクスの視線を受け止めながら、冷徹に思考を巡らせる。
この男が最も恐れ、激昂するのは、自らの「大切な者」が傷つけられることだ。
なればこそ、皇帝の口から直々に『帝国からは、貴殿の大切な者たちを絶対に攻撃しない』という確約を取り付ける。その上で『ただし、王国側から一方的に攻撃を仕掛けてきた場合を除く』という条件さえつけておけば、どうなるか。
もし王国がこの男の力を利用し、帝国を一方的に叩こうとした際、この男は「大切な人たちを、罪のない人々を、戦火に巻き込ませないために」王国側を止める側に回るはずだ。
この怪物を、帝国を守るための『絶対の盾』へと変える。そうなれば、先に侵略を仕かけたのは我が軍でありながら、王国と五分五分の対等な条件で和平を結ぶことすら夢ではない──。
バレルは溢れ出そうになる邪念を殺し、必死に言葉を続けた。
「和平交渉のために。貴殿なら、王国と帝国の和平を可能にできるかもしれないと我は考えている」
沈黙を守るゼクスは、帝国の将からの突然の提案に、罠の可能性を必死に思案していた。
「……罠の可能性は、ないと言い切れますか?」
ゼクスの静かな、けれど鋭い問いかけに、バレルは首を振った。
「それを今ここで、明確に証明する術は我が身にはない。だが、ゼクス殿がここに突然現れ、遺品を確認してから、我は誰一人として他の者と連絡をとっていない。――それは貴殿のその目が、一番よく分かっているはずだ」
バレルは一歩前へ踏み出し、自らの覚悟を言葉に乗せる。
「軍の誰への報告もなしに、王国の貴殿ほどの人間を皇帝の元へ連れて行くのだ。下手をすれば、我は国家反逆罪として処刑されよう。……だが、それでもだ。これこそが、王国と帝国が血を流さずに和平を結ぶ、唯一無二の好機だと我は考えている」
(……国家反逆罪のリスクを冒してまで……。状況証拠が、この男の言っていることは本心だと告げている。この男も自分の命を賭けてまで、本当は和平を望んでいるんだ)
ゼクスは視線を落とし、深く思案に耽った。
もし、本当に帝国側と不侵略の約束を取り付けることができれば。それはつまり──。
(……美月に降りかかるかもしれない、これからの危険を、根本から無くすことができるかもしれない、ということか)
大切な存在を脅かす戦争そのものを終わらせられるかもしれない可能性に、ゼクスは激しく心を揺さぶられていた。
考え込み、身動きを止めてしまったゼクスに対し、その腕に抱きついていたセシルが、そっと上目遣いに声をかける。
「スーちゃん、どうする? ……もし、本当に和平が結べたら、それって、すごく格好良くて凄いことだけど……」
その声は、悩む愛しい人の背中を優しく押すかのような、純粋な響きを帯びていた。
だが、その可憐な表情の裏で、セシルは完全に別の打算を働かせていた。
(──もしスーちゃんが帝都に行くって言ってくれたら、あの泥棒猫のいる王都へ帰るのを、いくらでも遅くできる。それに、移動の間も万が一の時の為にって、スーちゃんからいっぱい引っついてくれる幸せな状況が、もっと続く……!)
世界を揺るがす和平交渉の裏で、少女はただただ、愛しい人との時間の延長に、胸の中で恍惚とした歓喜を跳ね上がらせていた──。




