ただ平穏を望む最強の抑止力
「……ありがとう、ゼクス殿」
敵将であるバレルから告げられた、重みのある感謝の言葉。それを耳にした瞬間、ゼクスはそれまでの悲痛な面持ちを消し、まるで心の底から救われたかのように、ふっと柔らかく表情を和らげた。
そのゼクスの変化を見届け、バレルはすぐさま背後の兵たちに向かって声を張り上げた。
「おい! 今すぐ荷馬車を持ってこいッ! 遺品をこれより受け取る!」
「は、はいぃっ!」
兵士たちは一瞬呆気にとられ、声を裏返らせながらも、慌ただしく動き出した。
ゼクスへの恐怖に全身をガタガタと震わせ、刺激しないように細心の注意を払いながら、荷台から帝国兵たちの遺品を一つずつ丁重に回収していく。
その様子を静かに見守っていたゼクスは、すべての遺品が帝国側に引き渡されたのを確認すると、安心したように微笑んだ。
「受け取っていただけてありがとうございます。それでは、俺たちはこれで失礼します」
ゼクスはペコリと綺麗に頭を下げると、セシルを抱きかかえたまま、自らの馬車の御者台へと戻っていく。
「セシル、もう警戒しなくていいから」
「はーい」
先ほどまでバレルを冷酷に睨み据えていたセシルの瞳から、底冷えするような殺意が一瞬にして霧散した。それと同時に、バレルの周囲の地面に、カラカラと音を立てて無数の氷が転がっていく。
少女は再び愛しいスーちゃんの腕に甘えるようにすり寄ると、幸せそうにニコニコと笑みを浮かべた。
その、あまりにも常軌を逸した変わり身の早さ。そして、何よりバレルを戦慄させたのは、いつでも自分を貫くとができた『アイスジャベリン』の存在を、気配すら出さずに配置していた異常さだった。
あの少女もやはり、この怪物に付き従う底の知れない存在なのだと改めて痛感し、背中に冷たい汗が伝う。
だが、バレルはこの前哨基地を預かる軍人のトップであり、帝国が誇る騎士団長と同格として、別枠で「将」を名乗ることを許された男だ。
去りゆく二人の背中を見つめながら、どうしても、この国の未来のために確認しなければならない一番の懸念があった。
今後の王国と帝国のパワーバランスを根底から覆しかねない、あまりにも巨大な疑問。
バレルは意を決し、進み始めようとする馬車に向かって、引き裂くような声を張り上げた。
「待て! ゼクス殿!」
手綱を握ろうとしたゼクスが、不思議そうに首を傾げて振り返る。
バレルは全身から冷や汗を流しながら、必死に声を震わせ、問い詰めた。
「貴様ほどの力が……いや、それほどの圧倒的な力を持ちながら、なぜ王国の軍に属していない……!? 貴様は、これから我が帝国をどうするつもりだ……っ!?」
国家の枠組みに縛られない最強の「個人」。それが牙を剥けば、帝国は明日にでも灰塵に帰す。その恐怖に対する問いかけだった。
しかし、問いかけられたゼクスは、何を突拍子もないことを聞かれたのだろうと言わんばかりに、ただ目を丸くして、不思議そうに首を傾げた。
「どうする、とは……? 俺はただの一般人ですから、帝国をどうこうするつもりなんて、最初からありませんよ」
当然だろうと言わんばかりの、あまりにも拍子抜けな答え。
バレルがその言葉に一瞬だけ安堵しかけた、その時だった。
ゼクスの表情から温度が消え、大真面目な、冷徹極まる顔でバレルを真っ直ぐに見据えた。
「けれど――もしまた、俺の大切な人を、そして罪もない人々を傷つけようとするなら。その時は、俺のすべてを賭けて、容赦しない。そう伝えておいてください」
悪気は、一切ない。ただ、人々を、大切な人たちを絶対に守り抜くという、あまりにも純粋で、それゆえに絶対に曲がらない決意の表明だった。
(……っ!)
バレルの脳裏に、凄まじい衝撃が過る。
先の戦い、全軍が命からがらこの前哨基地へと撤退してきた夜。
他の幹部たちと、あの戦場に現れた化け物の理不尽な強さについて、青い顔で語り合った絶望的な会話が鮮明に蘇る。
全軍を賭しても、あの男一人に勝利することは叶わない。もし、再び王国へ牙を剥き、この男の逆鱗に触れてしまえば、今度こそ帝国は根絶やしにされる。
この男の言葉は、ただの警告ではない。次に境界線を越えれば国ごと滅ぼすという、神の『最終宣告』だ。
目の前の怪物を敵に回すことだけは、絶対に避けなければならない。
そして、この男の、このありえない行動。
きっと王国に内密で、独断でこの場所へ来ているはずだ。
なればこそ、今が絶対の好機。
確信したバレルは、帝国の為にと覚悟を決め、去りゆく最強の一般人へ向けて、震える声を張り上げる――。




