響く悔恨、震える謝辞
どれほどの時間が流れただろうか。
死のような沈黙が支配する前哨基地で、やがて、意を決したバレルが重い足取りで一歩を踏み出した。
「……我が確認しよう」
「将軍! 危険です、罠かもしれません!」
背後から慌てて参謀が引き留めるが、バレルは振り返りもせず、ただ冷や汗を流していた。
「馬鹿を言うな。あの化け物が本気で我らを皆殺しにする気なら、誰が行こうが結果は同じだ。なればこそ、最高責任者である我が向かう方が効率が良いだろう」
己の恐怖を剛毅な言葉でねじ伏せ、ゼクスたちの数歩手前まで歩み寄る。
至近距離で対峙する、王国の怪物。バレルは鋭い視線を向けながら、軍人としての冷徹な思考を巡らせた。
(一瞬の隙を突き、腕の中の少女を引っ剥がして人質に取るか……?)
それが成功すれば、戦況をひっくり返せるかもしれない。だが、そう割り切ろうとした瞬間、バレルの肌に微かな風がまとわりついていることに気づく。その不気味な感覚が、かつてのラミルの報告を脳裏に蘇らせた。
(……待て。この男は風魔術による完璧な『先読み』を行う。――駄目だ、一切の隙がない)
不意打ちすら完全に予期されて終わる。
バレルが冷や汗とともに人質作戦を諦めた、その時だった。
ゼクスの腕に抱かれていたセシルが、じろり、と冷徹な視線をバレルへと向けた。
(……っ!?)
それは、先ほどまでゼクスに向けていた恍惚なものとは完全に真逆の、底冷えするような暗い殺意。
『スーちゃんの邪魔をしたら、絶対に殺す』
言葉にせずとも痛いほど伝わってくる少女の無言の脅迫に、バレルはさらに背筋を凍らせた。この少女もまた見た目に反し、今のラミルを完膚なきまでに退ける、常軌を逸した存在なのだと本能が告げていた。
バレルはそれ以上の思考を放棄し、ゼクスの背後にある荷馬車へと歩み寄る。そして、固い手つきで荷台のシートをがさりとめくった。
――そこにあったのは、紛れもない現実。
見慣れた帝国の軍剣、泥に汚れた認識票。および、兵士たちが万が一の時のために肌身離さず持っていたであろう、故郷の家族へ宛てた手紙の束。
ゼクスが言った通り、そこには手手厚く回収された膨大な数の「遺品」が、静かに積み重なっていた。
あまりの予想外の事態に、バレルはシートを握りしめたまま、呆然と呟く。
「……正気か、貴様は」
攻め込んできた敵軍の遺品を、わざわざ回収し、届けに来る者など、世界のどこを探してもいるはずがない。
バレルの言葉に応じるように、ゼクスは悲痛な面持ちで視線を落とした。
「申し訳ありませんでした。……謝って許されることではないと、分かっています。ですが俺は、己の怒りに任せて撤退する人たちに⋯⋯無差別に……こんなにもたくさんの命を、奪ってしまった……」
ゼクスはそう言うと、帝国の将軍であるバレルに対し、深く、深く頭を下げた。心からの悔恨と贖罪を込めて。
(……なんだ、この若造は。正気でこれを言っているのか?)
バレルは怒りや恐れを通り越し、ただただ困惑していた。
これは戦争なのだ。殺し合いの戦場なのだ。
攻め込んできた敵を臨時で殲滅したのは、軍人として、力を持つ者として当然の行為であり、勝者が敗者に頭を垂れる必要などどこにもない。
それなのに、この化け物は本気で傷つき、本気で命の重さに怯え、謝罪している。その底なしの善意は、時にどんな凶悪な魔術よりも、理解の範疇を超えた狂気としてバレルの目に映っていた。
ゼクスが頭を下げる間も、その胸に抱かれたセシルだけは頭を下げず、じっとバレルを冷酷に睨み据え、バレルの返答を待っているかに見える。
「……頭を上げろ、王国の青年。我らは戦争をしていたのだ。そこに恨み言などなかろう。それよりも、侵略行為に及んだ我が国の兵のために、そこまでしてくれた貴様のその……『善意』に、今はただ、礼を言いわせてもらおう」
バレルはそこで言葉を区切ると、自身の歪んだ恐怖を完全にねじ伏せるように、重厚な鎧の胸当てを拳で強く叩いた。
王国を滅ぼしかねない絶対的な怪物を前にして、一人の軍人として、帝国の将としての誇りをその眼差しに宿らせる。
「我が名はバレル。帝国の将だ。――将として、貴様に最大の敬意と礼を。……ありがとう、ゼクス殿」
その異常事態は、周囲で見守っていた帝国兵たちにも伝染していた。
「おい、あの怪物が頭を下げているぞ……」
「俺たちを殺しに来たんじゃないのか?」
「バレル将軍が敬意を払っている!?」
一瞬で自分たちを全滅させられるほどの力を持った神の如き存在が、なぜか自分たちに向かって深く頭を下げている。そのあまりにも不条理で奇妙な光景に、兵士たちの脳は完全に処理が追いつかず、ただただ呆然と立ち尽くすしかなかった――。




