恐怖の戦場、特等席の逢瀬
張り詰めた限界の沈黙。
ゼクスが放つ圧倒的なプレッシャーは、最前線に立つ帝国兵たちの正気を確実に削り取っていた。
恐怖が極限に達した、その刹那――。
「ひ、ああっ……!」
耐えかねた一人の兵が、引き絞っていた弓の指を、思わず離してしまう。
静寂を切り裂いて放たれた一本の矢。
それが引き金となり、極限状態にあった他の兵士たちも、雪崩を打つように一斉に攻撃を開始する。
「待て! 攻撃を止めろッ!」
バレルが引き裂くような静止の声を上げるが、時すでに遅し。
放たれた無数の矢と、壁上の魔術師隊から放たれた多種多様な攻撃魔術の奔流は、もはや誰にも止められず、一斉にゼクスとセシル目掛けて殺到した。
だが、ゼクスは眉一つ動かさない。
すでに『ウィンドセンス』を周囲に広範囲に展開していたゼクスにとって、迫り来る攻撃の軌道はすべて文字通り「丸見え」であった。
こうなることすら予想していたと言わんばかりに、ゼクスは静かに魔力を練り上げる。
(──フィジカルアップに割いていたリソースがなくなった今の俺なら……!)
直後、ゼクスの前方に不可視の『ウィンドカッター』が無数に吹き荒れた。
空を埋め尽くさんとしていた矢の群れは、ゼクスに届く遥か手前で、木片となって容赦なくへし折られて叩き落とされる。通常の風魔術ではあり得ない御業。
さらに同時に、炎や雷、氷、岩といった多岐に及ぶ帝国軍の魔術に対し、ゼクスはその全ての魔術に、寸分の狂いもなく自身が放つ魔術とぶつけ、相殺してみせた。
激しい轟音が響き渡る中、何一つとしてゼクスたちには届かなかった。
それどころか、攻撃が止んだ瞬間、巻き上がった爆煙や火の粉すらも即座に魔術で消し去られ、そこには傷一つない二人の姿があった。
文字通り、最初から何事もなかったかのように、基地の総力が虚空できれいに消滅したのだ。
(これが……これほどの理不尽が、あの戦場を壊滅させたゼクスという男の実力なのか……!)
あまりの圧倒的な光景を前に、バレルは全身の毛穴が逆立つような恐怖に襲われていた。
帝国一の魔術師であるハロルドでさえ、今放たれた攻撃の十分の一も防ぎきることはできないだろう。それをこの若者は、片腕で少女を抱き寄せたまま、難なく、事も無げにやってのけた。
(防壁を張るのではない……全ての魔術の属性を見極め、寸分違わぬ威力で相殺したというのか? ――これはもはや、人の領域ではない。神、か……!)
バレルだけでなく、周囲の兵士たちも完全に戦意を喪失していた。握りしめた武器はガタガタと震え、その顔には「もはやこれまでか」「一瞬で全滅させられる」という絶望の色が濃く浮かんでいる。
轟音が止み、一転して凍りつくような死の静寂が、帝国の前哨基地を支配していた。
誰もが容赦のない「神の裁き」を覚悟し、恐怖に喉を鳴らす中――ゼクスの腕に抱かれたセシルだけは、違っていた。
セシルは震える帝国軍など視界にすら入れず、ただひたすらに、己のすべてであるゼクスを見上げ続ける。
頬をほんのりと赤らめ、潤んだ瞳に熱い羨望の光を宿らせながら、世界を無慈悲に圧倒したその横顔を、うっとりと恍惚とした表情で見つめている。
世界がどれほど恐怖しようとも、セシルにとってこの光景は、大好きな旦那様が誰よりも格好良く輝いている、ただそれだけの、至福の瞬間でしかなかった。
「――私はゼクス!軍属ではない!此度は先の戦いで散った帝国兵の遺品を持って参った! 確認していただきたい!」
張り詰めた硝煙の匂いの中、一切の空気を読まないゼクスの大声が、前哨基地の広場に響き渡った。
「……は?」
バレルの思考が、完全に停止した。
周囲の兵士たちも、何を言われたのか理解できず、幽霊でも見たかのように呆然と固まっている。
軍属ではない? 遺品を持ってきた? 確認しろ……?
(……罠、か!? いや、待て……)
バレルは必死に混乱する脳細胞を回転させ、冷や汗を拭いながら思考を巡らせる。だが、すぐにひとつの結論に達した。
(あり得ん。これほどの、神に等しき圧倒的な力を持つ怪物なのだ。我らを罠に嵌める必要などどこにある? そもそも敵を全滅させたいだけならば、罠など使わずとも、あの恐るべき魔術で視界の外から狙撃すれば事足りるはずだ……!)
そして何より、軍属ではないという言葉。それが真実なら、目の前の怪物は国家の命令ではなく、ただの「個人」として動き、そして本気で、ただ純粋に「遺品を届けにきた」と言っていることになる。
罠ではない。それは理解できた。
さりとて、バレルには、このあまりにも常識外れな男の申し出の「真意」を、どうしても理解することができなかった――。




