愛は時に人を狂わせる
「だから……パパ、ママ。お願い。私が本を隠したことも、スーちゃんが転生者だってことも……私たちが知っているってこと、スーちゃんには絶対に、絶対に黙ってて……。お願い、パパ……っ」
セシルの必死な、それでいて底知れない執念が宿った懇願を受け、ハンスはしばらくじっと沈黙を守っていた。
やがて、深く重い吐息とともに、観念したように言葉を紡ぐ。
「……そうだな。今更そんな事実を明かしたところで、誰の身の振り方も変わりはしない。いや……今更変えてしまったら、全員が不幸になるだけだ」
ハンスの言葉に、セシルは母の胸の中で小さく頷いた。
そう、今更真実を暴いたところで、誰も救われない。それはゼクスにとっても、セシルにとっても。そして――この世界で『聖女』として生きている美月にとってもきっと。
「だが、セシル。私たちが黙っていたとしても、いずれ他国から情報が流れてくる可能性は否定できない。あのご先祖様の手記に書かれていた『異界の伝承』が、もしも再び現実に起こるようなことがあれば……必ず聖女様も、ゼクスも、その渦中に巻き込まれるだろう。そうなればお前だって……」
「うん。……だから、それまでに美月様の心をもっと折らなきゃいけないね」
ハンスの危惧を遮るように、セシルは平然と、酷く冷徹な声で言い放った。
涙に濡れていたはずのその水色の瞳には、すでに感傷など一滴も残っていない。ただ、愛する男を脅かす障害をどのようにして徹底的に叩き潰し、その精神を再起不能に追い込むかという、恐ろしいほどの策略と冷酷な計算だけがギラギラと輝いていた。
「っ……」
ハンスの背中に、本能的な戦慄が走った。
あまりの禍々しさに、言葉を失う。かつて魔術師団員として過酷な前線で命のやり取りをし、様々な人間の執念を見てきたハンスですら、目の前の我が娘から放たれる『狂気』には圧倒されるしかなかった。
(恋とは……愛とは、時にこれほどまでに人間を狂わせるものなのか……っ)
最愛の男を手に入れるためなら、恋敵の心を完膚なきまでにへし折ろうとする。
娘がいつの間にかそこまでの『怪物』に変貌していた事実に、ハンスは胃の腑が冷えるような感覚を覚えていた。
それと同時に、これほどの執念を向けられ、挙式前にすべてを「上書き」されてしまったゼクスに対して、一抹の同情すら湧き上がるほどだった。
そんな父親の恐怖などどこ吹く風で、セシルは母の手をそっと握りながら、まるで悪戯を思いついた子供のような声音で続けた。
「ねえ、パパ。もしもね、どうしてもスーちゃんにあの本を明かさなきゃいけない時が来たら……一度、パパのところに本を送るから。パパのところから、偶然見つかったみたいにして、またスーちゃんに送ってね!」
我が娘が何を考え、どれほど先のことまで見据えて策を講じているのか、ハンスにはもう計り知れなかった。もし切り札としてあの本が必要になった時、自分が『発見者』を偽装すれば、セシルが隠匿していたという事実をゼクスに悟られずに済む――そこまで計算しているのか。
ハンスはしばらく呆然としていたが、ゆっくりと目を閉じた。
娘のしていることは狂気だ。だが、その狂気はどこまでもゼクスを愛し、彼をこの世界で幸せにしたいという純粋な願いから出ている。
何より、ここでゼクスを繋ぎ止めておくことは、後々はゼクス自身の救いにもなるはずだ。
「……わかった。お前がそうしろと言うなら、私はその通りに動こう」
ハンスは腹を括り、力強く頷いた。愛娘のため、そして息子も同然のゼクスのためにも、この秘密を一緒に墓場まで持っていく覚悟を決めたのだ。
すると、それまでセシルを優しく抱きしめていたマリアが、ふふ、と困ったように、けれどどこか楽しげに微笑んだ。
「なんだか、とんでもなく大変なことになってしまったわね。……セシル、頑張りなさい。ママは応援しているわよ?」
「うん! パパ、ママ、ありがとう!」
セシルは、先ほどまで涙を流していたのが嘘のように、打って変わってパッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
そのあまりにも無邪気で愛らしい笑顔は、ハンスの知る「可愛い愛娘」そのものであったが、だからこそ、その裏にある底知れない檻の深さが、ハンスの胸に消えない畏怖を刻みつける。
(スーちゃんに置いていかれるの、すんなり引き下がってよかった……。これでどう転んでも、きっとスーちゃんは私のもの)
腕の中で無邪気に微笑む娘の、脳裏に響くはずのない冷徹な絶対の確信。
何をしてでも一人の男を手に入れてみせるという、愛娘のどこまでも狂気的で、凄まじいまでの純愛。
ハンスは、そのあまりにも一途な情念の重さに、ただただ脱帽するしかなかった――。




