帝都に響く恐怖の足音
国境の山脈から、命からがら近くの前哨基地へと逃げ延びた帝国軍の残存兵たち。
そこでは、己の枯渇しかけた魔力を文字通り擦り切れさせながら、未だ無数の負傷兵の治療に当たっている勇者・拓真の姿があった。
騎士団長ダルムと魔術師団長ハロルドは、そんな拓真の治療活動と前線の最低限の処置を見届けると、ラミルを伴い、すぐさま帝都へとトンボ返りした。
一刻も早く、あの「王国の怪物」の脅威を皇帝へ直訴せねば、帝国そのものが滅びかねない。極限の危機感が、彼らを突き動かしていた。
数日後──。
臨戦態勢の緊迫感が漂う、帝国の心臓部たる壮麗な謁見の間。
だが、そこに満ちているのは、かつてないほどの屈辱と、肌を刺すような恐怖の沈黙だった。
玉座に鎮座する帝国の絶対権力者、帝国皇帝・ガラルド。
その冷徹な眼光が見下ろす先で、帝国の最高幹部たちとラミルが深く平伏していた。彼らの衣服には、未だあの夜の激戦の痕跡たる泥が残り、その表情には隠しようのない怯えが刻まれている。
「……して、勇者拓真が敗走したというのか。おめおめ退却しようとしたところを狙撃され、甚大な被害を受けたと。それも、王国のたった一人の化け物に」
重厚な皇帝の声が、静かに謁見の間を揺らす。怒りすら通り越したその冷徹な問いに、魔術師団長ハロルドは屈辱に全身を震わせ、床に拳を強く打ち付けた。
「……申し訳ございませぬ、陛下! 弁解の余地もございませぬ……! ですが陛下。奴は、奴は人間などではございませぬ。目視不可の距離から山を穿つ魔術の連発……。単独であっても帝国を滅ぼせる怪物にございます……!」
騎士団長ダルムも声を詰まらせながら、痛恨の極みといった様子で告げる。
「我が騎士団の有能なる副長、バザレクも奴の放った『光の槍』の直撃を受け……死体どころか、遺品すら遺さず、跡形もなく消滅いたしました。我々は、奴を侮りすぎておったのです……!」
その横で、ラミルが震える声を絞り出し、現地に残って治療を続ける拓真の言葉を代弁した。
「陛下……! 基地で治療を続けていた拓真殿は、ゼクス単体にどうしても勝てなかったと……! 私も奴がいつも連れ添っている女に完膚なきまでに叩きのめされました。奴らの力は我らの常識を遥かに超えています。正面から全軍をぶつければ、我が方は確実に壊滅いたします……!」
帝国の最高戦力がそろって「勝てない」と絶望している。
一同の報告をじっと聞いていた皇帝は、背もたれに深く身体を預けると、凍りつくような低い声で冷徹な事実を告げた。
「……そこまでの化け物か。ならば、もはやまともに矛を交えることすら愚策。ハロルド、拓真にも直ちに伝えよ。──ゼクスと再び相まみえた場合、帝国最強のカードである貴様であっても、もう二度と戦うな、と」
皇帝の口から飛び出した、まさかの『不戦・撤退命令』に、謁見の間が凍りつく。
「ひ、陛下!? 拓真殿に戦うなと……!? 命を捨ててでも防波堤になれではなく、逃げろと仰るのですか!」
驚愕に目を見張るダルムを、皇帝は冷酷な眼光で一蹴した。
「国力たる兵はいくらでも代えが利くが、拓真という最強の駒を無駄死にさせるわけにはいかん。奴の命を最優先にせよ。敵が来れば、戦わずにただ逃げろ。これは厳命だ」
「ッ……!」
帝国最強の勇者にすら「勝てないから逃げろ」と命じる、皇帝の圧倒的なまでの危機感。ハロルドは深く頭を垂れたまま、震える声で進言した。
「……御意にございます、陛下。なれば……なれば、もしも奴らがこのまま帝国へ攻め込んできた場合、我が国は『降伏』すら視野に入れるべきかと存じます」
「降伏、だと」
皇帝の眉が僅かに動く。その微かな変化に怯えながらも、ハロルドは必死に言葉を重ねた。
「はっ……! 多少こちらが不利な条件になろうとも、即座に和平を申し入れるべきです。そのためにも、王国の第二王子・ライオネルとの密約は、もう……即刻、反故にするべきかと! 奴を操って王国を揺さぶろうとした結果、背後の化け物の逆鱗に触れて帝国が滅ぼされては、元も子もございませぬ!」
「あるいは、陛下」
ダルムがそこに這いつくばったまま、泥泥の声を被せる。
「すべてはライオネルの計略であり、帝国は乗らされていただけだと王国側に伝えるのも手です。あの怪物の矛先を、こちらに向けさせないためであれば……トカゲの尻尾切りなど、いくらでもやるべきかと存じます!」
皇帝は幹部たちの苦汁の決断を静かに聞き届け、ふと、その場に足りない「もう一人の将」の名を口にする。
「……バレルはどうした」
その問いに、ラミルが再び声を絞り出した。
「いえ! バレル将軍は……無事にございます! 現在は、そのまま前哨基地の守備につかれております!」
「ふん……。流石はバレルだ。その怪物相手に一人で前哨基地を支えようというのか。見上げた忠誠心だ」
皇帝の言葉は、この場にいる者への冷酷な皮肉だった。
「して、バレルの意見もお前たちと同じということか?」
「「はっ、その通りでございます」」
皇帝は目を閉じ、低く、絶対的な威厳をもって命じた。
「ダルム、ハロルド、今は帝都の防衛軍を再編せよ。ラミルも下がれ。総力を挙げて、最悪の事態に備えるのだ」
「「はっ……!!」」
「失礼、いたします……」
最高幹部たちは、冷や汗に塗れた顔を上げられぬまま、拝むようにして謁見の間を退室していった。
重々しい扉が閉まり、再び静寂が訪れる。皇帝は誰もいなくなった壮麗な空間を見つめ、ぽつりと呟いた。
「国を揺るがす怪物の目覚め、か……。バレルよ、帝国の命運、ひとまずは貴様の双肩に託すぞ」
帝都の最高幹部たちが、それぞれの恐怖と屈辱を胸に、籠城準備へと動き出す。




