少女の覚悟、秘密の隠匿
「セシル……っ!」
マリアはたまらず足を踏み出し、涙を流す我が子を壊れ物を扱うかのように優しく、けれど力強くその両腕で抱きしめた。
本能が、すべてを理解していた。この子は、ただ狡猾に男をハメたのではない。絶望的な恐怖と戦いながら、ボロボロになった彼を必死に繋ぎ止め、その傷を自分が全て背負って癒やそうと、狂おしいほどの覚悟を決めたのだと。
マリアの温かい胸の中で、セシルは母親の肩に顔を埋めながら、なおも壊れた人形のように、掠れた声で愛の執念を紡ぎ続ける。
「どうしても、スーちゃんと一緒にいたくて……。誰に何を言われても、神様に怒られても……私は、スーちゃんと一緒にいたかったの……っ」
母に抱きしめられながらも、セシルの水色の双眸は、ハンスの目を真っ直ぐに見つめていた。その瞳の奥には、涙で濡れながらも決して揺らぐことのない、底知れない『檻』の輝きが鈍く光る。
ハンスは、その瞳に宿る圧倒的な情念の重さに、ただただ言葉を失い、圧倒されるしかなかった。
セシルは母親の背中に指を食い込ませたまま、掠れた声で、自らが犯したさらなる『罪』を告白し始めた。
「あの本ね、もし……もしもスーちゃんの目に触れちゃったら、スーちゃんが美月様のところへ行っちゃうかもしれないって、私、怖くなって……。だから、私が隠しちゃったの」
「お前が……隠した、だと?」
ハンスは思わず声を漏らし、目を見開いた。
(──だからか。だからあの時、ゼクスが王都の家で『そんな書物はなかったはず』と妙に気にするような素振りを見せていたのは、そういうことだったのか)
パズルのピースがまた一つ、カチリと音を立てて嵌まっていく。ゼクスが探していたのは異世界関連の書物。それを、他ならぬこの愛娘が、男を縛り付けるために先回りして奪い、隠匿していた。
娘の徹底した執念に、ハンスは背筋が寒くなるのを覚える。あの生真面目な青年が、自分の知らないところで、これほどまでに緻密で冷徹な罠に搦め捕られていたのかと。
「ううん、それだけじゃない。手記を隠して安心してたのに……それでも、美月様はスーちゃんの正体に気づいて、スーちゃんのことが好きだって、王都で何度も何度もスーちゃんに迫ってきたの。スーちゃんがどれだけ拒絶しても、あの人は諦めてくれなくて、スーちゃんを激しく揺さぶり続けた……」
セシルは母親の胸の中で、きつく奥歯を噛み締めた。水色の瞳には、聖女という絶対的な存在に対する、底知れない敵意と焦燥がギラついている。
「だから……だから昨日、私はスーちゃんにお願いしたの。あんなに美月様に迫られて、傷ついて、ボロボロになって迷子になっていたスーちゃんに縋り付いて……やっと、私を、私のことだけを見てって。そうしてやっと、スーちゃんは私を受け入れてくれたの……」
ハンスは、娘の痛々しい言葉をただ黙って受け止めるしかなかった。
ゼクスが昨夜、挙式前にもかかわらずセシルの『わがまま』を受け入れた本当の理由。それは単なる若さの過ちなどではない。
拒絶してもなお遠ざけることができない聖女からの猛烈なアプローチに、決定的な拒絶を突きつけるため。そして、自分を猛烈に求めて泣いてくれるセシルを、これ以上傷つけないため。
ゼクスはセシルの差し出した「自分だけを全肯定してくれる救いの手」に、辛うじて溺れるようにして救いを求めた結果だったのだと理解する。
「でも、まだ安心できないの。パパ、ママ……今でも、もしあの本がスーちゃんに見つかる場所に現れたら、美月様の婚約なんて関係ないって、スーちゃんが全部を放り出して美月様のところへ行っちゃう気がして……私、毎日、毎日怖くてたまらないの……っ」
マリアの服を掴むセシルの指先が、恐怖で白く震えていた。
すべてを手に入れたような顔をして帰ってきた娘の正体が、これほどまでに脆く、今にも崩れ去りそうな絶望の裏返しだったのだと知り、ハンスの胸は父親としての締め付けられるような痛みに満たされる。ゼクスを完璧に閉じ込めたはずの檻の主が、実は誰よりもその檻が壊れる恐怖に怯えているのだ。
セシルはマリアの胸からゆっくりと顔を離し、涙で濡れた顔で、ハンスを、そしてマリアを懇願するように見つめた。
「だから……パパ, ママ。お願い。私が本を隠したことも、スーちゃんが転生者だってことも……私たちが知っているってこと、スーちゃんには絶対に、絶対に黙ってて……。お願い、パパ……っ」
沈黙が、部屋を重苦しく支配する。
我が一族の血に宿る治癒の力。そして、その引き金となった異界の伝承。
ハンスは、泣きじゃくる愛娘の、世界を敵に回してでも一人の男を檻に閉じ込めようとする覚悟を前に、深く、重い息を吐き出すのだった──。




