隙間を埋めた純愛
「パパ。王都の家にあった、あのご先祖様の日記みたいな本。……そこに書かれていたことって、本当のことなの?」
「この世界の人じゃない」という娘の言葉を、ハンスの脳はすぐには咀嚼できなかった。あいつが人間ではないとでも言うのか。
そんな荒唐無稽な話があるはずがない。
だが、セシルが口にした「先祖の手記」という単語を聞いた瞬間、ハンスの背筋に冷たいものが伝った。
娘の目は、冗談を言っているようには到底見えなかったからだ。
「……あの本か。手記に書かれていた内容、か……」
ハンスはごくりと喉を鳴らし、娘の放った狂気じみた言葉の余韻を振り払うように、記憶の底にある古い記録について、重い口を開き始めた。
「初めてあの手記を読んだ時は、私もただのおとぎ話の類だと思って信じていなかったんだ。……だがね、セシル。お前が生まれて、お前がその『治癒の力』を使ってから……私は、もしかしたらあれは本物なのではないかと、疑うようになったんだ」
「パパ……」
「そして、今ならわかる。色々なことが、あのご先祖様の手記の記述通りに起こっているのは、紛れもない事実だ。王都の公式な歴史書には記載されていないが⋯⋯」
ハンスの苦渋に満ちた確信。それを聞いたセシルは、どこか諦めたように、悲しげに目を伏せた。
「そっか……。パパも、本当のことはわからなかったんだね。……だったら、私が教えてあげる」
セシルは自身の胸元を強く握りしめ、意を決したように顔を上げた。
「スーちゃんはね、転生者なの。手記のご先祖様みたいに、別の世界からこの世界に生まれ変わってきたの。……『ミヅキ』っていう人を追いかけて、この世界に来たんだって、王都に行く前に私に教えてくれた……」
「な、んだと……!? それは……本当なのか……!?」
ハンスは衝撃のあまり絶句した。
隣に立つマリアも、信じられないというように両手を口元に当て、固唾を呑んで娘の次の言葉を待っている。
だが、ハンスの脳裏には、同時に一つの巨大な得心が突き刺さっていた。
――三歳の頃からだ。あの少年は、普通の子供ではおよそあり得ない、常軌を逸した苛烈な修行を自らに課し続けていた。
当時はただの早熟な天才、あるいは狂気じみた努力家だと思っていた。だが、もし彼に「前世の記憶」があり、「別の世界から追いかけてきた誰か」のためにその力を蓄えていたのだとしたら、すべての辻褄が合ってしまう。
「うん……。教えてもらった時、すごくショックだった。それでも、私はスーちゃんのことが好きで……。だから、そのミヅキって人が、スーちゃんに見つからなかったらいいのにって、心の奥で汚いことを思ってたの。スーちゃんを応援したい気持ちもあるのに、どうしても、諦められなくて……っ」
セシルの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
ハンスはその娘の涙を見つめながら、背中に走る戦慄を抑えられずにいた。
(別段、秘匿していたわけではないが……ミヅキ、だと? それは、今や国中で知らない者のいない、あの『聖女』の名ではないか。手記に書かれていた、私達のご先祖様が直面したのと全く同じ状況が、今、ゼクスの身の上に起きている。だが……決定的に違うのは──)
「……それで、王都でね、見つかっちゃったの。美月様が」
セシルは涙を拭い、昏い情念を滲ませながら続けた。
「でも、美月様にはもう、婚約者がいた。だからスーちゃんは、美月様の幸せを願って、自分が追いかけてきたって事実を隠して……一人で、諦めようとしてたの……っ」
(――そうか。やはり、そういうことか)
ハンスは内心で、苦いパズルの最後のピースが嵌まるのを感じていた。
我が先祖の手記にある異界の者達は、互いに結ばれていた。だが、ゼクスの場合は違う。
彼が恋い焦がれ、すべてを賭けて追いかけてきた『聖女』は……別の者。この国の王子と、すでに結ばれていたのだ。
だからこそ、ゼクスは絶望し、行き場をなくし、心を彷徨わせ――そして。
「……私ね、そんな風に弱りきっちゃったスーちゃんの、心の隙間につけ込んじゃったの」
セシルは自身の胸元をきゅっと強く握りしめ、涙をボロボロとこぼしながら、けれどどこか酷く愛おしそうな、歪な微笑みを浮かべた。
「そうでもしなきゃ、私はスーちゃんの隣にいられなかったから。……そうやってやっと、スーちゃんの心を手に入れたんだ。自分の都合のいいように、あの人を縛って」
娘の口から漏れ出た、昏い情念の匂い。ハンスは、目の前の愛娘がまるで得体の知れない別の生き物になってしまったかのような錯覚に、息を呑んだ。
「私は、すごく悪い女の子かもしれない。でも……でもね、パパ、ママ。私は、あの優しくて、誰よりも傷ついて弱りきっちゃったスーちゃんを──私の手で、絶対に幸せにしてあげたいの……っ」
涙ながらに吐き出された、娘の身勝手で、けれどそれ以上に切なすぎる本音。
その言葉を聞いた瞬間、隣で固唾を呑んで見守っていたマリアの目からも、堪えきれずに涙が溢れ出した。




