溢れる喜びと先祖の手記
ゼクスが一人で戦場跡へと出発した後。
村に置いていかれたセシルは、ハンスとマリアが待つ自分の家へと帰る道すがら、すっと自身の薄い唇に両手を当てていた。
脳裏に蘇るのは、昨晩、あの部屋で交わした熱い熱い抱擁。ゼクスを自分の檻に完璧に『上書き』した時の、あの甘美な感覚。
思い出すだけで胸の奥からドロリとした歓喜が溢れ出し、周囲に人がいるのもお構いなしに、セシルは、ふふ、えへへ……と、ニヤニヤする笑みをどうしても抑えることができなかった。
すれ違う村人たちが、見たこともないほど妖艶に、そして恍惚と微笑む少女の姿に、思わず怯えたように道を譲るほどに。
「ただいま、パパ、ママ」
家の扉を開けると、そこには片付けをしていたハンスとマリアの姿があった。ハンスは娘の帰宅に目を細めつつ、その背後にいるはずの男の姿がないことに気づき、不思議そうに首を傾げた。
「おや、おかえりセシル。……ゼクスはどうしたんだい? 一緒じゃないのか?」
「うん。スーちゃんはね、あの戦いがあった山肌に行っちゃった。散っていった守備兵たちの遺品を持ち帰って、王都の家族に届けたいんだって」
セシルは少しだけ拗ねたように唇を尖らせながらも、どこか誇らしげに胸を張る。
「私もついていくって言ったんだけど……あそこにはまだ、戦いの凄惨な光景が残っているからって。『セシルには見せたくないんだ』って、置いていかれちゃった。酷いよね、私、スーちゃんのお手伝いしたかったのに」
「はは、そうか……」
口では不満を言いつつも、ゼクスの「過保護な優しさ」に、大事にされている喜びを感じているのは明白だった。
ハンスは、愛娘がそれほどまでに大切に思われている事実を、父親として心から嬉しく思い、隣に立つ妻のマリアもまた、「本当に素敵な旦那様ね」と言いたげに、優しい微笑みをセシルに向けている。
そんな温かい家族の空気の中、セシルはふと、上気した頬をさらに赤く染めながら、まるで今日のお天気のことを話すかのような気軽さで、とんでもない爆弾を投下した。
「あのね、パパ、ママ。……結婚式までに、赤ちゃんが出来てても、いいよね?」
「……ぶっ!? は、はあぁっ!?」
ハンスは目を見開き、情けない声を上げて完全に口篭った。持っていた食器を落としそうになりながら、自分の耳を疑う。
「セ、セシル……! お前、何を、何を言っているんだい!? 結婚式はまだ数か月も先なんだぞ!?」
「だって……昨日ね、もう、もらっちゃったから……」
セシルは世界で一番幸せそうな、そして最高に甘い、とろけるような笑みを浮かべて微笑んだ。
その純真無垢でありながら、一線を越えたことを隠そうともしない娘の態度に、ハンスは頭を抱えた。
「あ、あいつ……! ゼクスのやつ、昨日の夜、私があれだけ念押しした時には『まだ何もありません』なんて大真面目な顔で豪語していたくせに……っ! なんて奴だ、紳士の面皮を被った狼め……!」
ハンスは裏切られたような、けれど男としてどこか納得してしまうような、複雑な焦燥感で顔を紅潮させる。
一方のマリアは、一瞬驚いたように瞬きをしたものの、「あらあら……」と、どこか楽しげに口元を袖で隠した。
そんな父親の狼狽を見て、セシルは慌ててゼクスを庇うように両手を振った。
「パパ、怒らないで! スーちゃんは悪くないの。私が、どうしてもスーちゃんの赤ちゃんが欲しいって、泣いてお願いしたんだもん。スーちゃんは、私のわがままを受け入れてくれただけなの……」
「お前が、お願いした……?」
ハンスは動きを止め、娘の瞳を見た。
そこにあるのは、単なる若い男女の情欲ではない。
何があってもゼクスを逃がさないという、底知れない、執念に近い、狂おしいほどの愛が宿っていた。
ハンスは、娘のその「重すぎる愛」の深さに気圧されつつも、どこか腑に落ちない違和感を覚える。
あの生真面目を絵に描いたようなゼクスが、挙式前の段階で、いくら娘に泣きつかれたからといって簡単に一線を越えるだろうか。
あいつはそんな、情欲に流されるような軽い男ではないはずだ。
それを、そこまで強引にセシルが追い詰め、ゼクスが受け入れた理由は、一体何なのか。ハンスの鋭い直感が、その「異常な焦り」の裏にある深い歪みに気づかせていた。
「……セシル。どうしてそこまで急ぐんだ? あいつはお前を愛しているし、式が終われば嫌でも夫婦になる。なぜ、昨夜そこまでしてゼクスを縛る必要があった?」
ハンスの真剣な問いかけに、セシルの顔からフッと惚気た笑みが消えた。
部屋の温度が、一瞬で数度下がったかのような静寂。
セシルは自身の胸元に手を当て、水色の瞳を昏く濁らせながら、静かに、けれど決定的な告白を始めた。
「……スーちゃんにはね、ずっと、心の奥で想ってた人がいたの」
「なんだって……?」
ハンスが絶句する。横のマリアも、小さく息を呑んだ。
ゼクスに、セシル以外の別の女の影。
この村で育ち、王都の学園へ進学してからも、ゼクスが特定の女性と深く仲良くしているような噂は、バルトロの家にも届いていなかったはずだ。
この村に、ゼクスとそんな関係になるような子など、絶対にいなかった。
「ずっと想っていた人……? どういうことだ、セシル。村の子供たちのなかに、ゼクスと仲が良かった子はいなかったはずだが……」
「違うの、パパ。この世界の人じゃないの……」
セシルは静かに、しかし確信を持った声で言い放った。
だから急がなければならなかった。あの女との繋がりを、物理的に断ち切るために。
「……は?」
ハンスは思考が完全に停止した。娘が何を言っているのか、脳が言葉を拒絶する。
この世界の人ではない。では、あいつは一体どこの誰を想っているというのか。死者なのか、あるいは――。
セシルは静かに首を振り、そして、呆然とするハンスの目を真っ直ぐに見つめた。
その水色の双眸に含まれる尋常ならざる重圧に、ハンスの背中に冷たいものが走る。
その眼差しは、すべてを見通し、世界の構造すら把握しているかのように。
「パパ。王都の家にあった、あのご先祖様の日記みたいな本。……あそこに書かれていたことって、本当のことなの?」




