月光に溶ける罪と誓約
「なっ……!?」
セシルの口から飛び出した、あまりにも常軌を逸した「お詫び」の要求に、ゼクスは衝撃のあまり脳裏が真っ白になった。
かつてないほどの激しい動揺がゼクスを襲う。
喉が急速に干からび、背中を冷や汗が文字通り滝のように伝い落ちていく。
目の前にいるのは、狂おしいほどに妖艶な、たった一人の少女なのに、戦場で刃を交えたどんな化け物よりも恐ろしかった。
「セ、セシル……! 待ってくれ、落ち着いてくれ。俺は……俺は君のことも、本当に大切で、好きだ。美月にだって、婚約者がいる。だから、俺を、俺の言葉を信じてほしい⋯⋯!」
興味がないと言えば嘘になるが、今まで通り紳士としての防衛ラインを保つため、弁明しようと必死に声を絞り出す。
だが、ぴったりと胸に吸い付くようにくっついたままのセシルには、そんな言葉は何のブレーキにもならなかった。
彼女の体から漂う、どこか熱を孕んだ少し甘い香りが、ゼクスの思考力を執拗に奪いにかかる。
「でも、美月様に『愛してる』って言ったんだよね……。あの人の影が、スーちゃんの中に残ってる。それが耐えられないの。……だから、あの人が入り込めないように、私で全部、全部上書きしたいの」
光の消えた水色の双眸が、じっとゼクスの瞳を覗き込んでくる。
その視線は、ゼクスという存在のすべてを自分の支配下に置くまで決して離さないという、底知れない執念と純愛の狂気が宿っていた。
「結婚したら、子供ができるのは当たり前なんだから……それが、ほんの少し早くなるだけだよ? 私に、スーちゃんの血を引いた赤ちゃんをくれたら……そしたら、美月様とのことも、ぜんぶ、ぜんぶ許してあげるから……ね?」
今までも、王都の部屋でセシルからやたらと距離を詰められたり、誘惑されるようなことは何度もあった。
けれど、今、目の前で囁かれている言葉の重みは、それらとは完全に一線を画していた。
爪の先、髪の毛の一本に至るまで、今夜のセシルは文字通り「本気」だった。
誤魔化しも、はぐらかしも絶対に通用しない。
その圧倒的な本気度を肌で察知し、ゼクスはさらに激しく焦燥を募らせる。
「だが、俺は、さっきハンスたちに誓って、まだ何も――!」
「パパたちだって、もう私たちは夫婦同然だと思ってるよ?」
焦るゼクスの声を、セシルは小鳥のような愛らしい、けれど冷徹な声音で容易く遮った。
「式まであと数か月しかないんだし……今さら断る理由なんて、どこにもないよね、スーちゃん?」
それでも、まだ駄目だ、今ここで流されては男としての、紳士としての倫理観が崩壊してしまうと、ゼクスは最後の抵抗を試みる。
「それでも───」
その拒絶の言葉が紡がれるより早く、セシルの唇が、ゼクスの言葉を強引に塞ぐように重なった。
「……んっ……」
それは、今まで二人が交わしてきた、どのキスとも違っていた。
底知れない執念と、狂気的なまでの愛。そして、何があっても絶対に獲物を逃がさないという、獣じみた絶対的な熱を孕んだ、深い、深い抱擁。
衣服越しに伝わるセシルの肢体は驚くほど熱く、けれどどこか小さく震えていた。
「私、不安だから……お願い。スーちゃん……」
唇が離れた瞬間、セシルの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、ゼクスが今まで頑なに守ろうとしていた、生真面目な防衛ラインが、自らが美月に犯してしまった不実への罪悪感と、逃げ場のない愛の檻の前に、メキメキと音を立てて完全に崩壊していく。
目の前で自分への愛ゆえに不安に怯え、涙を流している少女。自分自身も、確かに好意を寄せている、守ると決めた大切な人。
ここでなお拒み続ければ、それこそセシルの心を決定的に壊し、彼女を深く傷つけてしまう。それは、ゼクスにとって何よりも犯してはならない過ちのように思えた。
彼の倫理観が、今度は「彼女を拒むことへの罪悪感」へと反転していく。
(そうだ。俺はセシルと一緒にいると決めたんだ。美月を完全に突き離す為にも、これ以上、拒む理由なんてないんだ⋯⋯)
脳内で、都合の良い言い訳のような、けれど逃れられない決定的な「覚悟」が弾けた。
ゼクスは、自らを甘く、けれど窒息するほど強く束縛するセシルの身体を、ついに拒むことができなくなった。
諦念と、それ以上の熱い情動に突き動かされるように、その細い腰へと腕を回す。
窓から差し込む静かな月光が、ベッドの上で重なり合う二人のシルエットを妖しく照らし、やがて夜の闇のなかへと、深く沈んでいった――。
* * *
翌朝。
小鳥の穏やかなさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日に包まれて、ゼクスは目を覚ました。
「……っ」
身体を動かそうとして、腕のなかに確かな重みと温もりを感じる。
そこには、信じられないほどに幸福そうな、満ち足りた寝顔を浮かべたセシルがいた。
ゼクスの胸にぴったりと寄り添って眠る彼女の、白い肌の温もり。
そして、部屋の空気に微かに残る甘い名残が、昨夜起きた出来事がすべて、現実の出来事であったことを告げていた。
ゼクスは寝室の天井を見上げ、胸の奥を占める途方もない罪悪感と、同時に「本当にもう、後戻りはできない」という決定的な運命の重みを、静かに噛み締めていた。
進級前の、あの美月の結婚式と同じ時期に、自分はセシルと式を挙げる。だが、その前に――。
昨夜のセシルの、狂おしいほどの執念を思い出す。もしかしたら、数ヶ月後を待つまでもなく、セシルの身体には、すでに自分の血脈が、新しい命として宿っているかもしれないのだ。
その事実に、目眩がするほどの責任感がゼクスを支配する。
「……ん……。おはよう、私の、旦那様……」
ゼクスのわずかな身じろぎで目を覚ましたセシルが、世界で一番美しい宝物を見るかのような、潤んだ瞳でゼクスを見上げてきた。そして、その薄い唇に、この上なく愛おしそうな、とろけるような笑みを浮かべる。
ゼクスは、その向けられた絶対的な愛の重みを、生涯をかけて背負う覚悟と共に受け止めながら、彼女の柔らかな銀髪を、優しく撫でるしかなかった。
それは、国の命運を握る最強の男と、彼を檻に閉じ込めた少女の――決して解けることのない、歪で、どこまでも甘美な「誓約」。
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次話より新章へ突入します。
世界の理、女神の悪戯編




