月光の尋問、暴かれた氷壁の記憶
夕食は、まさに祝祭そのものだった。
「今日は本当にめでたいわ!」と張り切っていたミラとマリアの二人が腕によりをかけた豪華な料理が、木製の食卓を埋め尽くしていく。
香ばしく焼き上げられた肉や新鮮な野菜、湯気を立てる温かいスープを囲み、一同は賑やかな声を響かせた。
バルトロもハンスもすっかり上機嫌で酒が進み、セシルはゼクスの隣で甲斐甲斐しく料理を取り分けながら、終始、至上の幸福を絵に描いたような愛らしい笑顔を浮かべていた。
ゼクスもまた、そんな温かい家族の輪のなかで穏やかな笑みを返していたが、胸の奥には、先ほどバルトロたちに語った「王都での綱渡り」の緊張感がかすかに残っていた。
やがて夜も更け、宴がひと段落した頃。
寝支度を始めようとしたゼクスに向けて、ハンスが少し赤くなった顔で悪戯っぽく笑いながら、粋な計らいを告げた。
「ゼクス、わざわざ別々の部屋を用意する必要もないだろう。もう進級前の休みには式を挙げると決まったんだ。王都でも二人で暮らしているわけだし、今夜はセシルと同じ部屋でゆっくり休みなさい」
「え、あ、いや……」
ゼクスが僅かに狼狽し、生真面目な紳士としての倫理観から断る大義名分を探そうとする。だが、その隣でセシルがすかさず「ありがとう、パパ!」と満面の笑みでハンスの提案を受け入れた。
バルトロやミラたちも当然の婚姻前の夫婦として頷いており、もはやゼクスに退路はなかった。
かつてゼクスが使っていた、懐かしいはずの寝室。
カチャリ、と静かな音を立てて木製のドアが閉まり、部屋に二人きりになった瞬間――。
室内の空気が、まるで絶対零度の魔術が発動したかのように、一瞬で凍りついた。
「……ねえ、スーちゃん」
背後から響いたセシルの声には、先ほどまで大人たちの前で見せていた可憐な甘さは、一ミリも含まれていなかった。
ゼクスが驚いて振り返ると、そこには月光を浴びて佇むセシルの姿があった。水色の双眸からはハイライトが完全に消え去り、底知れない冷徹な暗がりを湛えて真っ直ぐにゼクスを射抜いている。
「皆の前では、合わせてあげたよ? スーちゃんが私を愛して、私のために国を脅かしてくれたって……パパたちが嬉しそうに勘違いしてくれてたから」
音もなく、セシルがゆっくりと歩み寄ってくる。一歩、また一歩。距離が縮まるたび、ゼクスの心臓は警鐘を鳴らすように跳ね上がった。
トントン。まるで昨夜の天幕での仕返しのように、彼女の指先が、規則的にゼクスの胸を叩く。
「でもね、お義母様に『浮気なんかするんじゃないよ』って言われたとき……スーちゃん、また右下を見て……嘘をついたよね?」
「っ……!」
ゼクスは息を呑んだ。完全に忘れていた。自分でも無意識だった視線の癖を、彼女は完全に、完璧に把握している。
「王都の守備に残ったのだって、私を守るため『だけ』じゃない。そこにいる美月様を、自分の手の届く範囲で一緒に守りたかったからだけど……それは優しいスーちゃんのことだから許してあげる」
セシルはゼクスの目の前まで来ると、その細く白い指先で、ゼクスの胸元をそっとなぞった。冷たい指先が、衣服の上からでもはっきりと心臓の鼓動を伝えてくる。
「だけど、それだけじゃないよね? 『浮気』っていう言葉にあれだけ過剰に反応して、あんなに後ろめたい目を隠した。……ねえ、あの日。スーちゃん、美月様と抱き合って⋯⋯何かあったでしょ? 」
執行猶予なしの、正確無比な心臓への狙撃。
ゼクスは喉がカラカラに干からび、全身から滝のような冷や汗が噴き出すのを感じた。
言い訳を探そうにも、目の前の水色の双眸は、どんな誤魔化しも、どんな小さき嘘も絶対に許さないという絶対的な意志で満ちている。
ここで嘘を重ねれば、それこそセシルの狂気を本物の暴走へと変えてしまうかもしれない。
ゼクスは観念したように、小さく息を吐き出し、声を震わせながらも、自身の罪を正直に告白した。
「……ああ。あの日、一度だけ……美月に、キスをされた。だが、それは美月から急にであって、俺からした訳じゃなくて……」
必死に弁明しようとするゼクスの言葉を、セシルは冷徹な沈黙で遮った。
その水色の瞳は、ゼクスが自ら口にした『キス』という想定以上の不貞の事実に一瞬だけドス黒く濁ったが、すぐに獲物を完全に追い詰めた蜘蛛のような、残酷な笑みを乗せていく。
セシルはゼクスの胸元に置いた指先に、わずかに力を込めながら、耳元でねっとりと囁いた。
「……へえ、キス、されたんだ。でも、それだけ? 二人、離れる前に何か真剣に話していたよね? スーちゃん、私にまだ隠してること、あるでしょ?」
セシルの酷く冷ややかな、けれどすべてを確信しているような声音に、ゼクスは完全に蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
脳裏をよぎるのは、美月を突き放す直前に、己の魂の底から溢れ出て、思わず口にしてしまった決定的な告白の言葉。
ただの不可抗力のキスならまだしも、心まで美月に預けたのだと知られれば、セシルがどうなってしまうか分からない。だが、今のセシルの前でこれ以上の隠し通しは、決定的な破滅を意味していた。
「その、それだけじゃなくて⋯⋯俺は、突き放す直前に……俺だって君を愛していると、美月に言ってしまった。……嘘をついていて、本当にごめん」
正直にすべてを白状し、深く俯くゼクス。
部屋を支配したのは、心臓が止まるほどに長い、底なしの静寂だった。
セシルの瞳から完全に光が消え、ドロリとした昏い嫉妬と怒りが渦巻く。
最愛の男が、別の女と唇を重ね、あろうことか愛の言葉まで囁いたという事実。その激情は、世界を一つ滅ぼしかねないほどに深く、圧倒的な殺意に近いプレッシャーがゼクスの肌をチリチリと焼く。
(愛してるって、私には一度も言ってくれたことないのに⋯⋯)
だが、セシルは狂乱しなかった。彼女はゼクスのその「嘘を隠し通せない不器用な誠実さ」と、自分に対して完全に白旗を上げてひれ伏した事実そのものに、歪んだ愛おしさを狂おしく募らせていく。
どんなに心が美月に揺らごうとも、今、私の前で頭を下げて泣きそうになっているのは、私のスーちゃんだ。
セシルは、ゼクスの頬にそっと両手を添え、顔を上げさせた。
その顔には、夜の闇に溶けるほど妖艶で、そして底知れない独占欲に満ちたとろけるような笑みが浮かんでいた。
「……やっぱり。本当にスーちゃんは嘘が下手。でも、ちゃんと正直に話してくれたから……いいよ」
セシルはゼクスの首に細い腕を絡ませ、自らの熱い体をぴったりと隙間なく預けて囁く。その体温の生々しさが、ゼクスの逃げ場を物理的にも精神的にも完全に奪い去っていく。
(美月様がどんなにスーちゃんの心を掴んでいようと、関係ない。スーちゃんの肉体も、未来も。逃れられない鎖で、私の檻の中に縛り付けてみせる)
「その代わり、お詫び。……私に、赤ちゃんを頂戴?」
「なっ……!?」
ゼクスが衝撃に目を見開く。
美月への未練ごと、その身も心も全てを今ここで塗り潰して、私のものにする――。
セシルの水色の瞳が、月光を反射して怪しく、そして狂おしく輝いていた。




