誓約と消えない嘘
「ここじゃなんですし、家の中でいいですか?」
隣でセシルが、満面の笑みを浮かべながらバルトロの家――すなわちゼクスの家を指差した。
その無邪気な一言を聞いた瞬間、ゼクスは全身から酷い汗が噴き出すのを自覚していた。
拓真との死闘よりも、今この状況のほうが遥かに心臓に悪い。
弾むような足取りのセシルとは対照的に、ゼクスは幽霊屋敷にでも足を踏み入れるかのような緊張した面持ちのまま、固い歩調で歩き出す。後ろに従うハンス達もまた、独特の緊張感をその背中に漂わせたまま後に続いた。
道すがら、懐かしい村の皆からの温かい歓迎の挨拶を交わしながらも、ゼクスの胃は雑巾のように雑に絞られるような痛みを訴え続けていた。
家の中に入り、それぞれが静かに席に着く。
木製の椅子にどっかりと腰を下ろしたバルトロは、いつになく神妙な、一村の長としての威厳を帯びた面持ちでゼクスをじっと見つめていた。
「で、話とはなんだ。ゼクス」
バルトロの低く響く声が、室内の空気を一瞬で引き締める。
ゼクスはごくりと固唾を呑み、膝の上で拳を血が止まるほど強く握りしめた。あの夜道で「直接話したほうがよくないか?」などと、少しでも現実を先延ばしにしようと姑息な時間稼ぎを試みていた自分を、今すぐ往復ビンタではたきたい気持ちに駆られる。
だが、言わなければならない。隣のセシルを見やり、覚悟を決めるようにゼクスは、喉の渇きを押し殺して意を決したように言葉を紡いだ。
(そう……俺はこの少女と一緒にいたい。誰にも渡したくない。そして──俺にはセシルが必要なんだから)
「その……セシルと結婚するって、約束しました」
「は……?」とバルトロとハンスの声が重なり、「え……?」とミラとマリアが顔を見合わせた。
水を打ったように静まり返る室内に、追い打ちをかけるようにセシルがこれ以上ないほど愛らしく微笑みながら、決定打となる言葉を重ねた。
「パパ、スーちゃんがね、『ちゃんと直接会って言いたい』って言ってくれたの。それで、今日はその報告のために来たんだよ?」
あの時、ただの先延ばしにしようと言い訳して口にした自分のセリフが、まさかこんなにも迅速に、そして完璧な大義名分として外堀を埋める最終兵器に利用されるとは。
ゼクスは内心で滝のような冷や汗を流したが、張り巡らされたセシルの包囲網の前には、もう一歩も後戻りはできなかった。
「つまり君は……あの手紙に書いた通り、我が娘の責任を、男としてとるためにここへ連れてきた、ということかい?」
セシルを誰よりも愛し、二人の関係を応援していたハンスだったが、いざ愛娘に手を出されたとなると、その表情には複雑な父親としての感情がありありと滲み出ていた。
ハンスだけでなく、バルトロ、ミラ、そして同席する周囲の大人たち四人の顔も、一様に真剣そのものだ。鋭い視線がゼクスの一挙手一投足に集まる。
「い、いや! まだ、その……手は出していません! 誓って、まだ何もありません!」
男としての、そして「紳士」としての倫理観を極限まで試されていると感じたゼクスは、慌てて両手を大きく振って弁明した。
結婚するという契約の算段をしただけで、自分たちの関係は今なお清廉潔白であると、必死に声を大にして訴える。
「そうか」
ゼクスのそのあまりにも必死で誠実な慌てぶりに、ハンスは張り詰めていた肩の力を抜き、どこか心の底からホッとしたように息を吐いて静かに答えた。
手が付けられないほどの化け物じみた強さを得てもなお、この青年は暴走する娘に対してどこまでも誠実な紳士のままでいてくれたのだと、深い安堵がその胸を包み込む。
「わかった」
バルトロも深く腕を組み、得心がいったように深く頷いた。そして、隣にいる親友へと視線を向けながら続ける。
「ハンス、お前もそれでいいか?」
「ああ。元より、そうなってくれたらと願っていたさ。セシルに課せられた重すぎる運命から守るために、結果的に彼を利用するような形になってしまっていたが……こうして本人たちの意志で決めて、わざわざ真っ直ぐに報告に来てくれた。父親として、これほど嬉しく、誇らしいことはないよ」
ハンスの温かい承認と、自分を信頼しきった言葉に、ゼクスは胸の奥をギチギチと締め付けられるような、深い罪悪感と逃れられない責任感を覚えた。
「よかったわね!セシル」マリアがセシルの手を握りながら嬉しそうに微笑む。その和やかな空気の中、ひとり、隣に座っていたミラだけがじろりと、すべてを見透かすような鋭い視線をゼクスに投げかけてきた。
「いいかい、ゼクス。ちゃんと責任を持って、この子を一生幸せにしてあげるのよ? ――絶対に、浮気なんかするんじゃないよ?」
「っ……!」
その言葉を真っ正面からぶつけられた瞬間、ゼクスの脳裏に、あの絶対零度のような氷壁の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。
泣きそうな顔で、壊れそうな瞳で自分を見つめていた美月の唇。その柔らかさと温もり。自分の責任を果たすために、心を殺していたはずなのに。けれど確かに交わしてしまった、あの甘く残酷なキスの記憶――。
そして。
(――俺だって、君を愛している)
あの時、美月を突き放す直前に、己の魂の底から溢れ出て、思わず口にしてしまった決定的な言葉を。
(だが──君はエドワードと幸せになるべきなんだ⋯⋯君を突き放すためにも俺はセシルと⋯⋯)
ゼクスは無意識のうちに、その瞳を泳がせ、視線を右下へと落としていた。




