乱闘?
ガレージの埃っぽい空気が、一瞬にして凍りついた。
白雪は手にしていたスパナを投げ捨て、低く沈み込むようなキックボクシングの構えをとる。その瞳には、鏡を叩き割った時と同じ、野生の火花が散っていた。
「野郎ども! スノーを守れ!」
ドクの一喝が響き渡る。
「ヒャッハー!」という叫び声と共に、老人たちが、油と泥でドロドロになった雑巾を一斉にエリカへと投げつけた。だが、エリカが眉ひとつ動かす前に、黒スーツの運転手が音もなく割り込み、それらを虚空で叩き落とす。
「しつこいんだよ、クソババア! 私はもう、おしとやかに寝たふりして、どこの馬の骨とも知れない王子様のキスを待つようなタマじゃないんだよ!」
白雪が地を蹴り、エリカの懐へと飛び込む。エリカの手にある、真っ赤な『美肌爆弾リンゴ』を、彼女の完璧に彩られた唇に押し込もうとするが、エリカは冷徹な視線のまま、電光石火の手刀で白雪の手首を叩いた。
宙を舞う赤い果実。
放物線を描いて落ちてくるそれを、背後に控えていた武藤が、野球のフライを捕るような軽やかさでキャッチした。
「……あぁ、もうすぐ二十二時。お肌のゴールデンタイムだわ。こんな不毛な争い、美容の天敵ね」
エリカはダイヤの腕時計を確認して溜息をつく。シャネルのスーツの襟を正し、乱れ一つない髪をかき上げた。
「白雪。このままでは私の怒りは収まらないわよ。次は、本気で『毒』……いえ、逃げ場のない『強制合宿エステ券』を執行してあげるわ。武藤! そのリンゴ、白雪の口にねじ込んでおきなさい。それがあなたの、今夜の仕事よ」
エリカは優雅な所作で背を向けると、漆黒のセダンへと乗り込んだ。排気音すら立てずに走り去るその後ろ姿は、嵐のあとの静けさというより、さらなる大嵐の前触れのように見えた。
「……はあぁ、めんどくせ」
白雪は構えを解き、泥だらけのツナギのまま地面に座り込んだ。
「……やっぱりエリカは、今も昔も変わらねえな。気に入らねえもんは力ずくで塗りつぶす。あの頃の、特攻服着てた時と同じ執念だぜ」
ドクがニヤニヤしながら煙草に火を点ける。その横で、武藤は手に持ったリンゴを、まじまじと見つめていた。
「白雪様。私も……やはりエリカ様と戦うポーズをとるべきでしょうか? それとも、この最高級リンゴを予定通りあなたの口へ?」
「勝手にしろよ。あんたは結局どっちの味方なのさ」
白雪の投げやりな言葉に、武藤は「やれやれ」と肩をすくめた。だが、彼はそのリンゴを白雪に食べさせる代わりに、スッと懐のハンカチで磨き上げ、自分の鞄に収めた。
「お言葉に甘えて、勝手にさせていただきます。……それにしても、エリカ様があれほど『戦う目』をなさったのは、いつ以来でしょうか。……実に、面白い展開になってきましたね」
夜のガレージに、白雪の溜息と、老人たちの笑い声、そして静かな決意を秘めた秘書の独り言が混ざり合っていく。




