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禁断の美肌林檎

 数日前まで最高級セダンに乗っていた武藤は、今、薄暗いガレージの片隅で膝をついていた。手には油の染みたボロ布。磨いているのは、ドクがかつて「大陸を横断した」と豪語する、無骨なハーレーダビッドソンの空冷エンジンだ。


「おい、武藤! そこは磨くんじゃねえ、魂を擦り込むんだよ! 指の皮が剥けてからが、本当の鉄の味ってやつだ!」


 ドクの怒声が飛ぶ。武藤は、乱れた前髪を腕で払いながら、低く呟いた。


「はい、総長……。やれやれ、私のキャリアプランに『ヴィンテージバイクの排ガス洗浄』という項目はなかったはずですが。それに、指の皮が剥けたらスマートフォンの指紋認証が機能しなくなる。極めて非効率的な業務ですよ」


「つべこべ言うなよ、武藤」

 白雪が、重厚なスパナを片手に横から口を挟んだ。彼女の頬にはさらに新しいオイルの汚れがついていたが、その表情はかつてなく晴れやかだ。

「あんた、会社の役員になる前に、まずこのボルト一個の重みを知りなよ。鏡の中の数字ばっかり見てるから、世界がペラペラに見えるんだよ」


「……白雪様までそんなことを。やれやれ、郷に入っては郷に従え、ですか。……実に不本意ですが、このピストンの曲線美、嫌いではありません」


 武藤が再びボロ布を動かそうとした、その時。ガレージの入り口に、一台の漆黒のセダンが音もなく滑り込んできた。

 運転手が素早く降りて後部座席のドアを開ける。現れたのは、磨き上げられたクリスチャン・ルブタンのハイヒール。そして、全身をシャネルの新作で固め、ダイヤのネックレスをこれでもかと輝かせたマダム・エリカだった。


「……出たな。クソババア」

 白雪が、スパナを握り直して吐き捨てる。


「……白雪。そして武藤」

 エリカは、宝石のついた指先でこめかみを押さえ、深いため息をついた。

「こんなオイルの臭いしかしない掃き溜めで、一体何をしているの?!あなたたちのせいで、私の情緒はボロボロよ。今朝だけで、開発中の新作口紅を三本も折ってしまったわ。二人とも、すぐに帰るわよ!お風呂の準備はできているわ」


 武藤は、エリカの立ち姿を見て、ふと遠い記憶を呼び起こしていた。かつて、夜の埠頭で特攻服をなびかせていた彼女の背中。今の完璧なドレス姿は、その過去を必死に塗りつぶそうとしているように見えた。


「マダム。残念ながら、今の私はこのエンジンの『魂』と対話中ですので」

 エリカは顔を顰める。

「……武藤まで、何を言っているの?せっかく私が、美しき王国を動かす特等席を用意してあげていたというのに」


 エリカが冷徹な手つきで合図をすると、運転手がひとつのアタッシュケースを捧げ持った。開かれたケースの中に鎮座していたのは、鈍い光を放つ拳銃……ではなく、不気味なほど真っ赤に熟れた、一個の巨大なリンゴだった。


「リンゴ? 何それ。毒でも盛るつもり?」

 白雪が挑発的に笑う。


「毒? そんなものじゃないわ。これは、私が自社農園で一億の予算をかけて作らせた、最高級の『美肌爆弾リンゴ』よ」

 エリカは、そのリンゴを愛おしそうに指でなぞった。

「一口食べれば、あまりの美容成分の濃さに、脳が幸福感でオーバーヒートして、二十四時間は強制的に眠りにつくわ。そして目覚めた時、あなたの肌は赤ん坊のようなプルプル肌に再生されている。……無駄な自我ノイズを消して、本物の『白雪姫』に戻れるわ」


 エリカは、一歩、一歩と白雪に近づく。


「さあ、白雪。おねんねの時間よ。鏡の向こう側の、静かな世界へ戻りましょう」


 エリカの瞳には、かつての総長が持っていた、獲物を逃さない鋭い光が宿っていた。

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