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秘書の受難

 漆黒の高級セダンが、静寂を切り裂くような急ブレーキをかけて、オイルの染み付いたガレージの前に停まった。

 不釣り合いなほど磨き上げられたボディに、ドクズ・ガレージの毒々しいネオンが歪んで映り込む。後部座席から降りてきたのは、乱れ一つない七三分けに、イタリア製のオーダーメイドスーツを纏った男――武藤だった。


「スノー様! 探し回りましたよ。お母様……エリカ様が発狂して、警察はおろか、私兵まで動かそうとしています。……さあ、大人しく戻って謝罪を。今ならまだ、お肌のゴールデンタイムに間に合います」


 武藤は、潔癖症を絵に描いたような手つきで眼鏡を押し上げた。だが、彼の視線の先にいたのは、彼が「保護」すべき清純な令嬢ではなかった。


 背中に金糸で『七人の小人』と凶悪な刺繍が施された、真っ黒なツナギ。

 頬には黒いオイルが戦化粧ウォーペイントのように塗りつけられ、その瞳には鏡を叩き割った時よりも鋭い光が宿っている。白雪は、スパナを肩に担いで鼻で笑った。


「武藤……。あんた、いつまでママの言いなりになってんの?」


「な、何を……。これは一応仕事です。それに、その格好は何ですか? 不潔ですよ……衣服の繊維から毛穴に侵入して、致命的な炎症を引き起こしますよ」


 武藤がハンカチを取り出そうとした瞬間、白雪がその胸ぐらを掴んで強引に引き寄せた。高級なウールの生地が、オイルまみれの指先で黒く汚れていく。


「不潔? これが『生きてる匂い』だよ、エリートさん。あんた、鏡の中の自分ばっかり磨いてないで、一度くらい泥水すすって、鉄の錆びた味でも覚えてみなよ」


 至近距離で睨みつけられ、武藤は一瞬だけ言葉を失った。怯えているのかと思いきや、そのレンズの奥の瞳は、どこか冷徹に、そして愉しげに白雪の豹変を観察している。


「……やれやれ。お嬢様の教育方針を、今日から『野生への回帰』に変更せねばならないようですね」


「おい、この坊ちゃんがマダムの放った『狩人』か?」


 ドクが、ニヤニヤと笑いながら武藤の周囲を値踏みするように歩く。


「ちょうどいい。白雪、こいつに荷物持ちでもさせろ。ガレージの掃除係とパシリが足りてねえんだ。育ちの良さそうな奴ほど、雑巾掛けは徹底的に仕込めるからな」


「掃除? 雑巾掛け……? 私は次期役員候補と目され、マダムの右腕として会社を動かしている男ですよ?」


 武藤が冷静に反論するが、白雪はすでにSR400のキックペダルを踏み抜いていた。

 ドシュォォン!!

 腹の底を突き上げるような爆音が、ガレージのトタン屋根を震わせる。


「いいから乗れよ。後ろで私の腰をしっかり掴んでな。振り落とされたら、そこでクビだ」


「待ってください。安全基準を満たしたヘルメットはありますか? ああ、私のセットした髪が……」


 武藤は「やれやれ」と天を仰ぎながらも、その手はしっかりと、ツナギを纏った白雪の腰を捉えていた。

 爆音と共に二人が夜の国道へと飛び出した時、武藤の口元には、エリート秘書の顔には決して見せない、野性的な笑みが微かに浮かんでいた。

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