第七章 第二ノルマ――十万人
七つのモニターに、同時にテロップが流れた。
『新ノルマ:登録者十万人。先着4名がクリア。期限なし。早い者勝ち。』
「……四人がクリアしたら、残り三人はそこで終わり?」
普段は青緑色のいぶきの葉が、端からゆっくり青紫へ沈んでいく。
ゆいが答えた。
「そうなるわね」
青紫が、わずかに深くなる。
「……大丈夫とは言えないけど、今から負けた後のことだけ考えない方がいいわ」
「……分かってる」
「ならいいの」
ゆい自身も、いつもの余裕ある笑みを失っていた。
セレネがテロップを睨んだ。
「なんで今度は先着なの?」
スピーカーから、オーナーが答えた。
「今回は速さも見る」
その先は言わなかった。
誰かの数字が増えるたび、自分の残り時間が減っていく。
何もしなければ、脱落する。
一週間経過
夜が深くなっても、るるの声はほとんど変わらなかった。
純血の吸血鬼である彼女にとって、この時間帯はむしろ馴染み深い。
「……今日は、これ歌う」
雑談では、いつもの声だった。
イントロが流れる。
最初の一音で、空気が変わった。
さっきまでの低く眠たげな話し声からは想像できないほど、澄んだ高音がマイクを通る。
細いのに頼りなくはない。透明な響きが、音程が上がるほど鮮明になった。
コメント欄の流れが一瞬止まり、その直後、一気に加速した。
『普段あんな低いのに歌った瞬間めちゃくちゃ澄む』
『声の高さどうなってるの』
『歌だけ別人みたい』
『この子、表現力えぐい』
るる自身は、大きく反応しなかった。
ふと、もういないりんなら「だからもっと感情出せって言っただろ」とでも言うのだろうか、と考えた。
「……そう」
それだけ。
みことは八万二千。
配信画面には完璧な笑顔を作る。
「ようこそ。今日は昨日の続きから仕上げます。細部の塗装までいけるといいですね」
『今日も綺麗』
『みことさんの作業、ずっと見てられる』
『この人だけ全然焦ってなさそう』
「焦っても数字は増えませんからね。今日もいつも通りいきましょう」
みことは笑ったまま、ピンセットで小さな部品の位置を合わせる。
コメントを一つ拾い、また笑う。
画面の端。
82,000。
視線が一瞬だけ数字へ滑る。
すぐに作業台へ視線を戻した。
配信終了のボタンを押す。
笑顔が消えた。
作業台の金属部分に、薄い霜が一筋だけ浮いていた。
もう一度、82,000を見る。
セレネは6万8千。
配信開始前、セレネはコメント欄を見て一度息を止めた。
数万人。
「……無理。冷静に考えたら無理」
それでも配信開始を押す。
数分後。
「だからその声は似てないって言うなーっ!」
さっきまでの小声が嘘のように、部屋いっぱいに声が響いた。
配信終了を押した瞬間、静かになる。
「……知らない人何万人に見られてるって、冷静に考えると無理なんだけど」
画面の向こうなら騒げる。直接顔を合わせるより、まだましだった。
「わたしの『断末魔』シリーズ見てくれた?次はもっとえげつないの出すからね!」
『また叫ぶの?』
『断末魔待機』
『初見だけどこの子ずっとうるさいな』
「初見に最初からそこだけ覚えられるの嫌なんだけど!」
コメント欄が笑いで流れると、セレネもつられて笑った。
カメラの前では笑っている。しかし配信の外では、壁のスピーカーを睨んでいた。
ななは5万4千。
七人の中でも下位だった。
ななは歌の途中でも、流れたコメントを見つけるとすぐ笑った。
「初見さん?いらっしゃい!今ちょうど歌ってたとこ!」
歌が終われば、そのままペンを持つ。視聴者から三つのお題を募り、即興で一枚にまとめ始めた。
「次、何描こっか。なんかリクエストある?」
コメントが流れるたび、できるだけ一つずつ拾っていった。
『初見です。声かわいい』
『お題三つでちゃんと絵になるのすごい』
『話しかけやすくて好き』
「ほんと?ありがと!歌もやるから、よかったら最後まで見てってね!」
コメントは流れる。
笑ってくれる人もいる。
ななは更新ボタンを押した。
数字は、ほとんど動かなかった。
「……なな、歌もやって、みんなと絵も作ってるのに、なんで伸びないの」
頬に近い星紋の光が弱くなった。笑おうとしても七つすべては灯らない。数字が増えないことそのものが、脱落へのカウントダウンに見え始めていた。
八日目
最初の通知が出た。
『クリア者:001 るる。登録者十万人達成。』
歌枠の切り抜きと短い歌動画が一気に広がった。
低く気だるい話し声と、透明な高音域の歌声。その大きな落差が新しい視聴者を呼び込み、そのまま登録へ繋がった。
たった一週間あまりで、一人目。
ななは画面を見て固まった。
この時点で、ななは6万2千。
「……うそ。はや……」
一週間前より数字は増えている。それでもるるとの差は約4万人ある。
セレネは7万4千。
「……るる、早すぎない?あの子何したんだろ」
自分も伸びている。だが「伸びている」だけでは意味がない。先に四人が十万人へ届けば終わる。
その夜。
『クリア者:003 みこと。登録者十万人達成。』
二人目。
残る枠は二つ。
ななのコメント欄には、「遅い」「まだ6万台」「脱落させよう」といった書き込みが増え始めた。
ななはカメラの前で笑顔を作ろうとする。
「あはは……なな、もうちょっとだから、みんな応援してね?」
しかし頬は引きつっていた。
九日目
セレネは7万8千。
数字自体は上がっている。だが伸びは鈍化した。
配信では絶叫モノマネを繰り返し、コメント欄を沸かせる。それでも新規登録へ結びつかない。
配信を切ったあと、セレネは壁を拳で殴った。
ななは6万5千。
5万4千から6万2千、そして6万5千。増えてはいるのに、本人には「追いついている」という感覚がなかった。
コメント欄からは容姿や種族的特徴への中傷まで飛んでくる。
「ななの……ななの配信、面白い?……面白いって言って?」
笑顔を作る余裕が消え始めていた。
いぶきは9万1千。
ゴールが目前まで来ている。
004号室の床は、もう完全に見えなくなっていた。
機材の箱、飲みかけのペットボトル、メモ、衣類、アニメーション用の資料。本人はどこに何があるか把握しているつもりらしく、迷いなく必要な物を拾い上げていく。
「……散らかってない。配置してるだけ」
コメント欄には『片づけろ』『足の踏み場ないじゃん』と流れている。
『昨日より物増えてない?』
『本人だけ全部場所わかってそう』
『葉っぱ赤い。怒った?』
「……怒ってない」
言葉とは逆に、葉の赤みが少し濃くなった。
「……これは完成形」
表情はほとんど変わらない。
けれど、もしひなたがここにいたなら、間違いなく笑っていた。
『完成してるのはゴミ屋敷の方だよ』
そんな声が頭をよぎった瞬間だけ、髪に混じる葉の一部が薄い青へ変わった。
いぶきはすぐにモニターへ向き直る。
短いアニメーションと3Dモデリングを組み合わせ、独特の制作過程そのものを見せることで視聴者を掴んでいた。
配信中、仕上がったモデルが思い通りに動くたび、髪に混じる葉は青緑から明るい黄緑へ寄り、視聴者からは「今日の葉っぱ分かりやすい」とコメントが飛んだ。
だが配信を切った瞬間、表情から可愛らしさが消える。
葉の色も黄緑から冷たい青へ落ちていく。
「……あと一万人」
数字を確認する横顔は、別人のように冷静だった。
ゆいは八万七千。
最初の頃は、
『落ち着く』
『今日これ聞きながら寝る』
『ゆい姉の声ほんと好き』
そんなコメントが多かった。
「はいはい。ちゃんと寝るのよ」
そう返す余裕もあった。
誰かを落ち着かせることは、ゆいにとって難しいことではなかった。
声を荒らげず、相手の言葉を急かさず、少しだけ間を置いて返す。
居留地にいた頃から、それだけで人が少し楽になることを知っていた。
だから配信でも、いつも通りにしていた。
少なくとも、最初は。
けれど数字が競争として意識され始めると、コメント欄の空気が少しずつ変わった。
『もっと近くでやって』
『前より攻めた方が伸びるって』
『このままだと他に抜かれるぞ』
『今日ちょっと元気なくない?』
次のコメントを読んだところで、ゆいの指が止まった。
『もっと近くで』
マイクとの距離を確かめる。
『前より攻めた方が伸びるって』
登録者数を見る。
八万七千。
ゆいは少しだけマイクを近づけた。
「……このくらい?」
『近い近い』
『その方がいい』
『今日も寝落ちしに来た』
「寝落ちはいいけど、ちゃんと布団には入りなさいよ」
いつもの声。
いつもの笑い方。
画面に映る範囲だけなら、まだ何も変わっていないように見えた。
けれど、背中では左右の羽が少しずつ重くなっていた。
本来なら淡い金と薄紫に分かれている色の境目が、以前より曖昧になっている。
薄紫側の羽根の根元には、わずかに濁った色が差していた。
配信が長くなるほど、細かな鱗粉が机の上へ落ちていく。
一粒。
また一粒。
本人だけが、それを見ないようにしていた。
「……次、何話そうかしら」
コメント欄が流れる。
笑う。
拾う。
また返す。
途中で一度、喉の奥が焼けるように痛んだ。
水を飲む。
それでも配信は切らなかった。
今ここで休めば、その間にも誰かの数字が増える。
期限はない。
だからこそ、休む時間そのものが怖かった。
配信終了。
ゆいはすぐに登録者数を開いた。
八万七千。
さっきまでと変わっていない。
机に積もった鱗粉を、画面から目を離さないまま手の甲で払う。
次の配信予定を確認する。
マイクとの距離を元へ戻す。
唇には、歯形が残っていた。
「……まだ、大丈夫」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その言葉を口にした瞬間、薄紫の羽からまた一粒、鱗粉が落ちた。
セレネのコメント欄には「りんみたいになるぞw」という言葉まで現れる。
「……りんみたいに、って……何」
マイクをミュートにした。
指が、一度だけボタンを押し損ねた。
ひなた。
せな。
りん。
消えた三人に何が起きたのか、依然として答えはない。
十日目
状況がさらに動く。
『クリア者:007 つみき。登録者十万人達成。』
三人目。
つみきは数秒だけ表示を見つめた。
「……よし」
小さく拳を握る。
その直後、別ウィンドウでエラー音が鳴った。
「今それ出る!?」
安堵より先に大声のツッコミが飛んだ。
残り一枠。
ななは7万1千。
一週間前の5万4千から見れば、大きく数字を伸ばしている。それでも本人の感覚は逆だった。
先にゴールする者が出るたび、残り時間そのものが削られている。
「やだやだやだ……なな、やだよ……」
恐怖で歌も安定しなくなり始めていた。
セレネは8万3千。
あと1万7千。
「わたしの配信、もっと伸びる方法ない……?声真似だけじゃ足りない、叫びだけじゃ足りない……」
袖口を噛みながら、画面の数字を睨む。カメラには出さない焦りが、行動に出始めていた。
ゆいは9万9千。
あと1,000人。
もっともゴールに近い敗者候補だった。
数字だけを見れば、ほとんど届いている。
けれど先着というルールに「ほとんど」はなかった。
ゆいは配信予定を見た。
次の枠まで、まだ時間がある。
妖精種は、そもそも肉体そのものの生命力が強くない。
ここ数日の無理が積み重なり、羽を持ち上げるだけでも背中に鈍い痛みが走る。
椅子から立ち上がろうとして、膝が一度だけ崩れた。
机へ手をつく。
誰も見ていない。
それでも反射的に笑顔を作りかけて、自分で気づいてやめた。
薄紫側の濁りは、もう羽の中央を越えている。
淡い金だった側にも紫が滲み、境目はほとんど分からなくなっていた。
ゆいは時計を見た。
次に数字を見る。
99,000。
休めばいい。
数時間眠れば、少しは戻るかもしれない。
頭では分かっていた。
けれど、その数時間のうちに誰かが十万人へ届いたら。
そこで終わる。
ゆいは配信開始画面を開いた。
指をボタンの上へ置く。
押さない。
少しして、また登録者数を見る。
99,000。
「りんがいたら」
そこまで考えて、ゆいは目を閉じた。
きっと怒鳴っただろう。
『そんな顔でやっても伸びねえだろ。寝ろ』
そう言いながら、自分は最後まで寝る時間を削ったくせに。
ゆいの口元が、ほんの少しだけ緩む。
すぐに消えた。
「……馬鹿」
誰に向けたのか、自分でも分からなかった。
配信開始のボタンへ、もう一度指を置く。
その指が震えている。
今まで誰かが迷えば、言葉をかけられた。
焦っている相手には、一度落ち着けと言えた。
りんにも。
いぶきにも。
セレネにも。
けれど。
自分自身へ向ける言葉だけが、何も出てこない。
「……私、どうすれば」
初めて、その声には誰かを安心させるための響きがなかった。
ここまで来ても、先着というルールには一切の猶予がない。
そして深夜。
『クリア者:004 いぶき。登録者十万人達成。』
表示を見た瞬間、いぶきの髪に混じる葉がぱっと明るく変わった。
冷たい青がほどけ、鮮やかな黄色と黄緑が葉脈まで走る。
「……やった」
小さな声だった。
けれど、その色だけは隠しようがなかった。
一瞬だけ、散らかった床の端へ視線が落ちる。
もしひなたがいたら、たぶん最初に「おめでとう」と言って、それから部屋の汚さをいじっただろう。
「……見たら、絶対うるさい」
口調はいつも通り平坦だった。
それでも葉には、喜びの黄色に混じって、ほんの少しだけ青が残っていた。
四人目。
残り、零枠。
ななのモニターに赤い表示が点滅する。
何かをする猶予すら与えられなかった。
三人の配信モニターが暗転する。
スピーカーから、ノイズ混じりの音声が流れた。
「006なな、009セレネ、008ゆい。別室へ移動してください」
三部屋の扉が外側から開いた。
ななは椅子から立ち上がれなかった。膝が震え、全身が硬直している。
「ま、待って、ななまだ配信切り忘れてた、待って、ねえ待ってってば……!」
セレネは抵抗した。
ゆいだけは、自分から静かに立ち上がった。ただし指先には血の気がなく、唇は真っ白だった。
「……どこに行くの」
黒服は答えない。
三人は暗い廊下へ連れ出された。




