賽は投げられた
「────は……で、……その……を…………さ……!」
「………………」
それは退屈な時間だった。
ダンス中、目の前の男が何かひたすら喋っている様子をイライラと眺め、エリザはただ時が過ぎ去るのを待った。
男は熱い視線をエリザに送り、エリザは冷ややかな視線でそれを受け流す。
そもそも、なぜこんなチャラチャラした男とダンスを踊っているのか。
次第に冷静さを取り戻したエリザは、いまの状況に腹を立て始めていた。
エリザの手は神の手を取るためだけにあるのに。
エリザの運命は、神と結ばれることなのに。
罪悪感にも似た奇妙な感覚がエリザの足元から少しずつ這い上がってきて、酷く居心地が悪かった。
……なんだか、とてもいけないことをしているような気分だった。
ホールの中心を意識して見ないようにしていたが、何故かそわそわと落ち着かない気持ちになっていく。
エリザは今すぐ帰りたい気持ちでいっぱいだったが、あと数分の辛抱だと我慢した。
なぜなら、先ほどバキバキにへし折れて落ち込んでいたエリザの自尊心を、壁の花に徹していたエリザ惨めな心を、衆目の中で跪いてエリザに価値があることを示したこの男に、ほんの少しだけ情けをかける余地があったからだ。
そうしてエリザは曲が終わると、義理は果たしたとばかりに、すぐに手を振り払い踵を返した。
「えっ!ちょっと」
焦ったような男の声が背後から聞こえたが、エリザは振り返らずに雑踏を抜けた。
会場の外の扉の前で、家紋のついた馬車を探す。すぐに見つけてさっさと乗り込もうと外階段を降りるエリザを呼び止める声がした。
慌てたように走ってくる足音がして胡乱気に見れば、先ほどの男が追いかけてきているのが見えた。
「まあ、まあ、待って、待ってくださいよ。」
ようやく追いついたとばかりに、フーッと額を手の甲で拭い、男はニッと笑う。
「どうか、馬車までエスコートを」
「勘違いなさらないで下さる?」
挑むようにエリザは目の前の男をきつく睨み見上げた。
「ただダンスを一曲踊っただけで、馴れ馴れしくしないでちょうだ……い」
強気な言葉が段々と尻すぼみになっていく。
エリザはぐさりと自分の言葉が自分の心に刺さるのを感じていた。
まるで、神に対するエリザの行いにも似ているようで、歯噛みする。
まだ本調子ではない。
弱っている自分自身を感じながら、エリザはこの男と自分は違うと心を奮い立たせる。
そっけなく顔を逸らせば、男は一瞬驚いた顔をしてすぐに破顔した。
男の夜空のような黒い瞳が、不思議にきらきらと輝いている。
「まったく、気の強いシンデレラだ」
そう言って、男は呆れたように笑い、きらめく何かを差し出した。
あ、とエリザは固まる。
「どうぞ、落としましたよ」
髪飾りだ。
慌てて自身の髪を触れば、それが無い。
あの時、髪飾りを外した後、ぼんやりしていて落としたことにも気づかなかった。
エリザは半ばひったくるように男の手から髪飾りを取り返した。
「〜〜〜〜っ…………ご苦労さま」
フンと顔を背ければ、堪えきれずに男は吹き出した。
睨みつけるエリザに慌てて男は口元を手の甲で押さえた。
「おっと、失礼」
エリザが無言で階段を降りると男は一緒に速度を合わせてついてくる。
一体どこまでついてくる気なのか。
「もう十分よ、どこかへ消えてちょうだい」
「そんなつれないことを言わないで。どうか、この私に美しいあなたの名前をどうか知る幸運をお与えください」
「図々しいわね。人に名を尋ねるときは、まずは自ら名乗るものよ。」
「ああ、失礼。あなたのような女神と出会えた幸運に酔っていたようだ。私の名は……」
「結構。覚える気もないの」
「ああ、そんな。では、麗しい妖精のような、あなたのことを私は何とお呼びすれば……」
歯の浮くような台詞を尻目にエリザはため息を吐いた。
「そんなもの…………」
────私はあなた様のことを何とお呼びしたら良いのでしょうか?
────────好きに呼んでくれて構わないよ、皆は神様と呼ぶことが多いけれど
グッと唾を飲みこむ。
どうして、この男はこんなにも煩わしい。
名前なんて、どうでも良い人間に教える義理はない。
でも、それってつまり、そういうこと。
情けなく眉を下げる目の前の男が、エリザには自分自身が重なって見えた。
「私の、名前、は……────」
エリザの唇が、やがて自身の名を紡ごうと、開く。
カラカラ、と音がした。
どきりと、心臓が音を立てた。
何も悪いことなどしていないはずなのに、何故か。エリザの心臓がどきどきと早鐘を打ち鳴らしている。
エリザと男の頭上に、大きな黒い影が落ちた。
振り返れば、エリザたちの目の前で大きな馬車がゆっくりと停止しようとしていた。
見慣れた公爵家の家紋、気を利かせた御者がエリザを迎えに来てくれたのだ。
御者席から降りてきた初老の男は帽子を外して深々と礼をし、馬車の扉を丁寧に開いた。そうして、丁寧な動作で、定位置へと戻る。
立派な黒い鬣の馬が、威厳を保って御者の合図を静かに待っていた。
「これは、あなたの迎え?」
「ええ、もう時間切れのようね」
気を取り直してせせら笑うエリザを見て、男はもう一度馬車に視線を移した。
男は、目を細めて何事かを考えるかのように口元を歪めた。
「離れがたいな。良かったら私の馬車で送るよ」
「もう会うこともないわね、さようなら」
「あー……本当に、結構タイプなんだけどなあ。流石に……はあ」
ぶつくさ言う男を背に、エリザはさっさと馬車に乗り込んだ。
ゆっくりと扉が閉まる。レースのカーテンを閉じれば、不快な男の顔も見えなくなった。
やがてゆっくりと馬車は動き始める。慣れた馬車の揺れ、遠ざかる城、エリザはようやく安堵の息を吐いた。
ドッと疲れが押し寄せてきて、誰も見ていないことをいいことに椅子の背にもたれかかる。
しかし、目を閉じれば、美しい二人の姿がよみがえってきて、エリザは眉間にしわを寄せた。
歓声と光を浴びて、輝く神様、と聖女。
読み漁った文献の文字がエリザの脳裏を埋め尽くす。
歴代の神の花嫁は、聖女が…………聖女聖女聖女聖女聖女!!!!!
「馬鹿馬鹿しい」
カッと目を見開いた。
全てをなぎ倒す勢いで、ブンと顔を振れば、銀色の髪が舞い踊った。
エリザは怒りを鎮めるように両手を握りしめた。
「あの子が特別なわけじゃないわ。あの方にとっては全部有象無象よ……大丈夫。明日から計画を練り直すのよ。だから…………」
ブツブツと呟いたあと、エリザは再びため息をついて目を閉じた。
握りしめた手の中に、髪飾りの感触がある。
胸元に大切な髪飾りを引き寄せて、ポツリと呟く。
「これを拾い届けてくれたことだけは、もう少しちゃんと礼をすべきだったかしら」
ふと、神様だけで占められていたエリザの脳裏に、一瞬だけ先ほどの男の顔が浮かんだ。
「エリザ」
エリザの頭上に、ありえない声が届いた。
「…………?」
心臓が止まるような思いで、エリザは目を開く。
下げた視線の先に、優美に組んだ長い足が見えた。
磨かれた黒い革靴、誂えられた上質な黒のトラウザーズは皺一つ無い。少しずつ目線を上げれば、見慣れた男の手が優雅に膝の上で指を組んでいる。
────それはエリザの目と鼻の先で、向かい側の椅子にいた。
ここにいるはずがないのに。
けれど、エリザが、他の誰でもない、あの方の声を聞き間違えるわけがなかった。
けれど、いつもならば、嬉しいその姿が、声が、何故か酷く、恐ろしく思えて。
「エリザ────────僕を忘れたの?」
その声は、ドロリと甘い響きを伴って、エリザの背筋を冷たく撫で上げた。
引き攣れた喉を鳴らし、エリザは息を吸う。
空気が、重く、凍てつきそうなほどに冷ややかで────
恐る恐る顔を上げた先に、それはいた。
そう、向かいの座席に腰掛け、優美に微笑むそれはまさに────
エリザが恋焦がれ続けてきた、神の姿だった。




