世界が崩れる音がした
────聖女があらわれた。
それは、何の変哲もないある日の朝、父親から告げられたことだった。
エリザはその時持っていたカトラリーを珍しく取り落とし、食堂には沈黙が落ちた。
波打つ水色の髪、豊潤な聖力を持つ、美しい少女。
片田舎に住んでいた平民の少女は、よくあるシンデレラストーリーのごとくあっという間に王都へ。華やかな舞踏会へ足を踏み入れ、高貴な出自のエリザと忌々しくも肩を並べるという。
公爵である父親は、ちらりとエリザの様子を横目でうかがった。
父親が神への恋慕をあきらめさせようとしていることに、エリザは気がついていた。けれど、エリザは顔をそらして「そうですの」と返答するのみだ。父親は眉を寄せ、ため息を吐いた。
今日は王家が主催する、聖女のお披露目の場として開催されたパーティーだ。
それは、ほとんどの貴族が参加する大規模な催しとなった。
奇異なものを見るように遠巻きで傍観する者、積極的に話しかけて交流する者、聖女はどの人間にも困惑気味にはにかんでは、不安そうにきょろきょろと落ち着きなく周囲を見渡していた。
けれど、滲み出る聖なる美しさが人々の目を引きつけて、離さない。
エリザは少女を遠巻きに眺めながら、鬱々とした気持ちが胸の内に広がっていくことを感じていた。
あの少女は、エリザが持っているほとんどの物を持っていない。
なのに、エリザが唯一持ち得ないものを、持っている。
妬ましくて、苦しくて、エリザはもう会場を出ようと少女に背を向けた。
その時、歓声が湧いた。
あ、とエリザは頭が真っ白になった。
今日はもう現れないと思ったのに。
ここには来てほしくなかったのに。
いつものごとく気まぐれに舞踏会の会場に現れた神が、楽しそうに周囲を見渡している。
ふと神の視線が水色の髪の少女をとらえた。
神様は面白いことが好きだ。
珍しいものに興味がある。
そして、神の花嫁は────
エリザはもう1秒だって聖女を神の視界に入れたくなくて、なりふり構わず神の元へ駆け寄った。
「神様……!!」
「やあ、エリザ。今宵は随分と豪華なパーティーだね」
いつものように穏やかに話しかける神に、エリザの気持ちは少しだけ落ち着いた。
どうも悪い方向に考えすぎている。
「ええ、王家が主催しているパーティーですもの」
「ああ、そうなんだ?」
なんとも気の無い答え、興味があるのか無いのか掴めない彼の様子に、エリザは笑みを深めた。
別に、神は聖女に会いに来たわけではないのだ。
それがわかっただけで、エリザの心は楽園のように柔らかく色付いた。
神はざっくばらんな態度で壇上の王家の人々に笑顔で手を振る。神の王家への挨拶が不敬なのか、神に対して上座に居座る王家が不敬なのか。王家の者たちが微笑んでいる様子を見るに、考えるだけ無駄なことだった。
その時、宮廷音楽団が旋律を奏で始めた。
皆が踊り始める中、エリザは頬を染め、そっと神に近寄る。
「神様、どうか私と……」
「あ、あのっ!」
突然割り込んだ大きな声に、エリザは驚いて振り返った。
ふわり、と水色の髪がエリザの視界を遮る。
「神様、私と踊っていただけませんか」
水色の髪の乙女が、神の前で微笑む。
誰よりも早く、ダンスを申し込もうとしたエリザを押し除けて、恐れ知らずにも聖女は頬を染めて神に声をかけた。
「そ、その、まだ、ダンスに自信がないのですが……」
私こそが
「そうなんだね」
目を細めて、神が微笑んだ。
私、こそが
「どうか、私と、踊っていただけますか?」
私、
神が、口を開いた。
「────なんて恥知らずなの!!!!!」
品位の無い声だった。
その声の出所は、……エリザだ。
エリザは神が返事をするより先に、少女の前へと踊り出た。
誰もが目を丸くしてこちらを見つめている。
それは分かっていたが、エリザは自分自身をもはや抑えることができなかった。
「あなたのような人間が、この舞踏会にいるなんて、ましてや、神様にダンスを申し込むなんて……っそんなの」
「エリザ?」
誰かにそっと手を掴まれた。血が上った頭で振り返れば、真っ直ぐに見つめる金の瞳と目があう。エリザは思わずたじろいだ。
美しい金色の目に、醜く憤るエリザの姿が映し出されているのを見て、一瞬にして血の気が引いた。
困惑しているような様子の神に、エリザは我に返る。
なんて意地悪な女だろうか。
衝動のままに動いた自身の行動を振り返り、今度は顔に血が上っていく。
こちらを見下ろす美しい神、その後ろに隠れる忌々しい聖女。
これでは、まるで私が悪者じゃないか。
だって
だって
私の方が、先だったのに。
この後、神様はこの女の誘いに乗るのだろう。
きっと、神は断らない。
いつも、エリザの誘いを断らないように。
「あ……」
唇が震える。
ガラガラと世界が崩れて落ちる音がした。
そう。
神は拒まない。
いつも、誰よりも早く、周りの者たちを押し除けて、神を誘うのはエリザだった。
だから、神はエリザと踊った。
それだけだった。
エリザは特別ではない。
そんなことは、エリザだって知っていた。
知っていたのだ。
でも、それでも、いつかこのまま、エリザが神にとっての唯一になれると信じていた。
聖女が現れなければ。
聖女さえ、現れなければ。
はりついた舌を動かして、エリザは言った。
「……神、様」
「うん?」
「……この方、…………信じられないことに、舞踏会が初めてのようですの。どうか、…………踊って差し上げて下さいな」
顔を上げて、エリザは微笑んだ。
なんて卑怯者だろうか。
これは、私の願いなのだ。
聖女の誘いを受けたのではない。
神は、エリザのお願いを聞いてくれたのだ。
そんな風にすり替えた。苦し紛れの姑息な手段。
「わかった、いいよ」
神は二つ返事で頷き、エリザに向かって優しく目を細めた。
そして、聖女の手を取った。
自分で言ったくせに、その姿にエリザは大きなショックを受けた。
だって、会場の真ん中で喝采を浴びる二人は、この世のものではないほど美しかったのだ。
頬を染めて神を見上げる、美しい少女。
光り輝くシャンデリアの下で、手を取り合う二人。
周囲の感嘆の声が、エリザを惨めな気持ちにさせた。




