第一話 『翡翠荘の殺人』 解答編(二)
真相
「ポイントになるのは、やはり密室殺人と死体消失です。つまり、犯人と死体はどのように部屋から消えたのか。理子先輩は私が悲鳴を上げてから文香ちゃんが駆けつけるまでの五分間で、男が静香先輩の死体を窓から投げ捨てて、理子先輩を脅して扉から脱出したと主張していましたね」
理子先輩は慎重に頷いた。瑠璃部長が咳払いをする。
「綾野君、君の言いたいことはわかる。犯人の視点では、扉がフリーな五分間のうちに綾野君が待ち構えている扉からの脱出を決断、実行しなければならないことになる。これは確かに困難に思える。しかし、犯人の男は屈強な犯罪者だった。か弱い女の子の一人や二人、脅して従わせてしまえばいいと考えていたとしても不思議ではないと思うのだが」
「はい、そうかもしれませんね。でも、私が話しているのはそのことじゃありません。文香ちゃんは四つ、指摘してくれました。時間の問題、心理の問題、鍵の問題、そして足跡の問題。最も重要なのは足跡の問題なんです。血痕は扉から部屋の中に向かって広がっていて、これを踏まないように扉から外に出るのは困難だったはずです。しかし、廊下に足跡は見当たりませんでした。これは一体どういうことでしょうか?」
理子先輩が答える。
「犯人は私に命令して足跡を残さないように工作したの。靴で血痕の上を歩いて最後に脱げば、廊下に足跡は残らないでしょ? それで、屋敷から出るときに履き直したの」
茜先輩の推理の通りの説明だった。確かにこれで物理的には成り立つ。改めて理子先輩の靴を見ると薄っすらと血の痕がにじんでいた。このトリック自体は本当のことなのだろう。でも、問題はトリックではない。
「なるほど、確かにハウダニットはそれで説明できますね。ここまでの話から男の行動を整理してみましょう。
まず、男は静香先輩を殺害した。廊下の外からは私の悲鳴が聞こえた。男は死体を窓から投げ捨てて窓を施錠する。理子先輩を脅し、足跡を残さないように一緒に部屋を脱出する。このとき、扉を施錠するのは忘れなかった。
――これは不自然です。私は悲鳴を上げていて、今にも誰かが駆けつけてくるかもしれない。そんな状況で足跡を残さないように工作したのはなぜでしょうか? 足跡の工作が男だけだったならまだわかります。自分の身元特定に繋がる証拠を残しておきたくなかったのかもしれない。でも、理子先輩の足跡の工作は男にとっては何のメリットもなくただ時間を浪費するだけの行為です。なぜ男は理子先輩の足跡を隠し、扉を施錠する必要があったのですか?」
理子先輩は悲しそうに微笑んだ。答えはない。私たちは静かに見つめ合った。
「犯人が外部の第三者であるならば、理子先輩の足跡がないのは不自然である。これは認めてくれますか?」
理子先輩は小さく溜め息をつく。
「そうだね。それは認めるしかない」
「ありがとうございます。今はそれで十分です」
私は深く息を吸い込んで話を続ける。
「外部犯の可能性は十分に検討しました。次は犯人が私たちの中にいると仮定してみましょう。部屋の中には理子先輩と静香先輩がいて、致死量の血痕があって、理子先輩は今ここで生きている。この時点で、理子先輩は有力な容疑者となります」
「私が怪しく見えるのは否定しないよ。でも、くるみちゃんが私を犯人だと断定するためには示さなければならないことがある。私と静香の死体がどうやって部屋を出たのか。私を犯人にしてみても密室殺人と死体消失は解決しない」
「とてもシンプルなことです。私が悲鳴を上げてから破られるまでに、扉には四つの状況がありました。第一に、私が悲鳴を上げてから文香ちゃんが駆けつけるまでの扉の前に誰もいない状況。第二に、瑠璃部長と茜先輩が駆けつけるまでの扉の前に文香ちゃんしかいない状況。第三に、瑠璃部長が一人で監視している状況。第四に、四人が扉の前にいて扉が破られるまでの状況。
第一の状況は、時間、心理、鍵、足跡の要因から脱出は困難です。第二の状況は、文香ちゃんが共犯の可能性もありますが、同じ理由で脱出することは難しいでしょう。第四の状況は、目撃者が多すぎて脱出できません。第三の状況はどうでしょうか。瑠璃部長は扉を監視していたと主張しますが、それを裏付けることができる人はいません。瑠璃部長の協力があったと考えれば、簡単に部屋を脱出して死体を処分することができたでしょう。消去法で考えれば、瑠璃部長の協力以外に密室殺人と死体消失を説明することはできません」
「証拠はあるのかな」
瑠璃部長は硬い口調で尋ねた。私は微笑んでみせる。
「いいえ、残念ながら。でも、そう仮定すると説明できることがあります。なぜ、密室殺人と死体消失が起きたのか――起こってしまったのか。密室殺人と死体消失はミステリ小説の中ではありふれたモチーフです。でも、現実ではそうじゃない。それはなぜか。コストと効果が釣り合っていないからです。手間暇かけて密室を構築したり死体を消してみせたところで自分の容疑が薄れるわけじゃない。それでも密室殺人と死体消失が起こったのなら、そこには何か理由があったはずです ――いえ、あるいは全くなかったと言うべきでしょうか」
瑠璃部長は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「事件のあらましはこうです。
私が部屋を訪れたとき、理子先輩は静香先輩に刃物で襲われていました。揉み合いになった結果、理子先輩は静香先輩を殺してしまいます。私は悲鳴を上げて気を失います。五分ほどして文香ちゃん、それから瑠璃部長と茜先輩も駆けつけます。そして私と文香ちゃん、茜先輩は去り、部屋の前には瑠璃部長だけが残されます。このとき、理子先輩はまだ部屋の中にいました。
ここは想像するしかありませんが、理子先輩は部屋の前から皆がいなくなったと思って扉を開けたのかもしれません。現場を目撃して、瑠璃部長は真実を悟ります。二人の間で何かしらのやりとりがあって、瑠璃部長は隠蔽に加担することにしました。死体を処分しなければならなかった理由まではわかりませんでしたが、今の理子先輩を見ればなんとなく察することはできます。その頬の引っかき傷はきっと静香先輩につけられたものなんですよね。静香先輩の爪の間には理子先輩の皮膚片が残っていた。他にも静香先輩の死体には証拠が残っていたかもしれない。
しかし、死体の処分は簡単ではありませんでした。瑠璃先輩は扉を見張ると宣言していたからです。窓から飛び降りることは不可能ではありませんが、危険なので理子先輩が扉からの脱出を選んだのは不思議ではありません。ただし、瑠璃部長の見張りと辻褄を合わせるためには足跡を隠す工夫をする必要がありました。恐らく、瑠璃部長は私たちを誘導して一箇所に集め、その間に死体の処分を終えた理子先輩が架空の犯人が部屋から脱出した証拠を捏造し、命からがら抜け出してきた体で私たちと合流する計画だったのでしょう。
誤算だったのは茜先輩が消防斧を見つけたことです。瑠璃部長は最後まで扉を破ることに反対していました。本来は、犯人は施錠された部屋の中にいて手出しができないということにして、私たちが適当な部屋に籠城する方向に話を運びたかったのだと思います。しかし、扉は破られて、部屋の中には犯人も死体もなかった。密室殺人と死体消失は誰かによって仕組まれたものではなかった。偶然に起こってしまったのです。
私たちが静香先輩の部屋を調べている間に、理子先輩と瑠璃部長はこっそり合流して口裏を合わせました。それから、私たちがここに戻ってきたタイミングを見計らって理子先輩が帰ってきました。これが今の私たちの状況です」
理子先輩はしばらく思案するように目を瞑っていた。
「憶測に憶測を重ねた危うい推理だね。裏付ける証拠は何もない。 ……でも、もっともらしいストーリーであることもまた確かだ。私と瑠璃部長の提示したストーリーよりも強度があるし、疑いを晴らすだけの材料はない。くるみに私を信じてもらうことはとても難しい」
理子先輩は大きく溜息をついて、瑠璃部長を見る。
「もう、いいのかい?」
瑠璃部長は優しく問いかけた。理子先輩は小さく頷いて弱々しい笑みを浮かべた。
「はい。私はただ皆に人殺しだと思われたくなかったんです。でも、それはもう無理そうですね」
「そうだね」
「私のわがままに巻き込んでしまってごめんなさい」
「なに、隠蔽は私から言い出したことだ。気にすることはないさ」
これで本当に良かったのか。理子先輩は身を守っただけで何も悪くない。瑠璃部長は理子先輩を庇った。私がやったことは秘密を暴き立てて全部台無しにしただけだったんじゃないか。
「くるみ、泣いてるの?」
ぐにゃりと歪んだ視界の向こうから理子先輩の心配そうな声がした。
「泣いてません」
理子先輩はそっと私を抱き寄せた。
「嘘。泣いてる」
「泣いてませんってば」
「ごめんね。素敵な先輩でいてあげられなくて。辛い決断をさせて」
「……辛かったです。理子先輩の敵になったみたいで。私のこと、嫌いになりましたか?」
「そんなことない。くるみは自分の正義の心に従っただけ。わかってるよ」
「嵐が止んだら、警察に自首してください」
「うん。そうする」
「嘘つかないで正直に証言してください」
「わかった」
「正当防衛だってちゃんと主張してください」
「うん」
「全部終わったら、また一緒にお話してくれますか?」
理子先輩は私の頭を優しく撫でた。
「きっとね」




