第一話 『翡翠荘の殺人』 終幕
公正審問
「さて、聡明なる探偵諸君。読み終わったかな?」
瑠璃は厳かに言って部員たちの顔を見回した。くるみは画面に活字が並んだスマートフォン固く握りしめて、皆の反応を待っていた。
最初に口を開いたのは理子だった。
「面白かった、とっても。私は好きだな。初めて書いたとは思えないくらい」
「本当ですか……?」
くるみは不安げに理子を見つめる。
「嘘なんてつかないよ。面白かった。特に評論の使い方が上手かった。内容自体のレベルも高いし、事件と評論のギャップが推理のヒントになっているのも巧みだった」
理子に続いて瑠璃も感想を述べる。
「私は何よりも初めてのミステリ執筆で密室殺人に挑戦したその心意気を評価したい。密室はミステリの王道で、歴史的にも多くの作家が挑戦したテーマだ。それゆえ、数々のパターンがやり尽くされ、新規性のある作品を作り出すことは難しい。そこにあえて切り込んだ勇気を私は称賛したい」
くるみはおずおずと尋ねる。
「でも、結局新しい密室は作れなかったんです。だから被害者を錯覚させてなんとか誤魔化すしかなくて」
瑠璃は深く頷いた。
「まあ、現代で真に新規性のある密室を作るのは不可能だと言う人もいるくらいだ。誤魔化せているだけ立派なものさ。むしろ、いかに誤魔化すかが――」
茜が瑠璃の発言を遮って短く言う。
「小難しいことはともかく、私は面白いと思ったよ!」
文香と静香も続いて簡潔に賛辞を述べる。
「くるみの小説好きだよ」
「私も良かったと思う」
部員たちの称賛の雰囲気にくるみはほっと胸を撫で下ろした。
「さて、それでは推理の答え合わせをしよう。綾野君、採点基準の説明を頼むよ」
くるみは緊張の面持ちで咳払いをした。
「えっと、はい。推理を構成する事実に対して百点満点で配点を設定しています。
事実一。理子先輩は生存している。配点二十点。
事実二。静香先輩は死亡している。配点二十点。
事実三。理子先輩は犯人である。配点三十点。
事実四。瑠璃部長は共犯である。配点二十点。
事実五。密室殺人と死体消失は茜先輩の行動による偶然の結果である。配点十点。
以上です」
「ありがとう。続けて各部員の採点結果も教えてくれるかい?」
「はい。点数順に発表します。ええと、茜先輩百点、理子先輩七十点、瑠璃部長二十点、文香ちゃんと静香先輩は〇点です」
「どうもありがとう。諸君、まずは素晴らしいミステリを書き上げた綾野君に拍手を」
瑠璃に続いて部員たちはくるみに惜しみない拍手を送った。
「最後は公正審問だ。私たちは綾野君の『翡翠荘の殺人』はミステリ的にフェアか、アンフェアかを審問する。ご存知の通り、公正審問には伝統的に厳格な規則が定められている。
第一条、ミステリは紳士淑女の知的な嗜みであって、審問は終始理性的に行われなければならない。審問が誰かの人格を毀損したり、名誉を傷つけたりすることは、あってはならない。
第二条、審問官に与えられる審問の機会は、一人につき一度限りとする。
第三条、審問官は審問の冒頭において自らの立場を明らかにしなければならない。立場はフェア、アンフェア、中立のいずれかとする。
第四条、審問中は審問官を除き、何人も発言してはならない。
第五条、審問の制限時間は三分とする。
第六条、全ての審問が終了した後、作者は一言のみ所見を述べることができる。
第七条、本規則は公正審問の開始に先立ち、必ず読み上げられなければならない」
瑠璃は芝居がかった口調で規則を読み上げた。
「審問はいつも通り推理の提出順で行う。まずは真壁君から」
瑠璃に促されて理子は頷いた。くるみはつばを飲み込んでメモ用紙とシャープペンシルを握りしめた。
「ごめんね、私はアンフェアだと思う。まず探偵役のくるみの推理そのものはとても良かった。特に、私の足跡が存在しないことを根拠に外部犯の存在を否定してみせたのは見事だった。でも、それは私と部長の嘘を否定するための推理であって出題編への解答じゃない。私がアンフェアだと思っているのは、出題編で期待される推理が解答編に存在しないこと。たとえば、出題編で読者は私の生存と静香の死を推理しなければならないのに、解答編の展開では推理されずに明らかになってしまった。私の生還を印象的に演出したかったのはわかるよ。ミステリは謎解きと物語という二つの要素があって、物語を軽視してはいけないという主張があるのも知ってる。でも、謎解きと物語の融合はとても難しいから、そこに乖離が起こってしまったのかなと私は思った。まとめると、解答編の推理が出題編に対する直接的な回答になっていないという理由で、私はアンフェアだと判断した」
理子は落ち着いた抑揚で穏やかに話した。くるみは必死にメモ帳に文字を書きつけている。
「ありがとう、真壁君。次は茜だ」
瑠璃は淡々と進行する。茜はくるみがメモを書き終えるのを待ってから話し始めた。
「あたしはフェアだと思ったかな。だって、推理できたもん。その、言い方がムズいんだけどさ。あたしが正解したのと関係なく、くるみのミステリは推理できるようにできてると思った。たとえば、理子の部屋に致死量の血痕があって、理子と静香が行方不明っていうのが出題編の状況だったわけじゃん。じゃあ、理子は実は生きてて静香が死んでるって推理できるくない? それと同じで、作中の推理にもあったけど、密室の状況を考えたらひとりで見張りをしてた瑠璃が共犯っていうのもありえる話だし、そう思って出題編を読み直せば瑠璃が本当は部屋を開けてほしくなくて、密室殺人と死体消失がたまたま起こっちゃったっていうのも推理できる。ほら、十分フェアじゃない?理子の話もわかるけど、フェアかアンフェアかで言えばフェアかなってあたしは思う」
茜はウィンクしてみせて、くるみは照れくさそうに微笑んだ。瑠璃は咳払いをひとつした。
「次は私だね。私はフェアの立場だ。常々言っていることだが、ミステリの最大の魅力は謎の幻想性と解答の現実性のギャップにあると、私は思っている。そしてフェアネスというのはこのバランスに対する作者の態度の問題だ。退屈な謎に妥当な推理と現実的な解答があったところで、それは本当にフェアと言えるのだろうか。一方で、魅力的な謎に対する解答に多少の粗があっても、私はおおらかな気持ちで許容できる。もちろん、解答が現実的であればなお素晴らしいがね。密室殺人と死体消失は謎として文句なく魅力的だし、解答も十分に現実的だと私は判断した。よって、これはフェアなミステリと言って差し支えない」
瑠璃が大袈裟な身振り手振りで話すのをくるみは真剣に頷きながら聞いた。文香は遠慮がちに小さく手を上げて話し始める。
「その、私はアンフェアだと思ったかな。確かに茜先輩の言う通り、出題編で正しい推理のために必要な情報は出ているかもしれない。でも、その推理が正しいと言えるだけの情報は出ていないんじゃないかな。たとえば、出題編の時点で真壁先輩の生存と佐々木先輩の死亡を推理するのは、あくまでもメタ的な直感でしかなくて、可能性として検討することはできても断定はできない。だから、アンフェアかなって。私はミステリのことよくわからないから、ひょっとしたら見当違いなことを言ってるかもしれないけど」
文香は少し自信なさげだった。くるみはゆっくりと首を横に振った。
「ううん、言ってることわかるよ。ありがとう」
「さて、最後は佐々木君かな」
瑠璃に呼ばれて静香は小さく頷いた。
「私は中立。前提とする基準によってフェアともアンフェアとも言えるから。これだけだとあまりにも自明な主張なので、この場を借りて最近思いついたフェアネスの基準を発表させてほしい。
まず、ここで考察の対象とするのは出題編と解答編に分かれたミステリに限る。推理とは、出題編から導き出される論理的に正しい真相の予想であるとする。推理は可能性と現実性の二軸で評価される。可能な推理はすべての出題編の情報と矛盾しない推理のことであり、不可能な推理は矛盾する出題編の情報が存在する推理のことである。また、現実的な推理は一般的な物理法則及び社会常識に照らして許容できる推理のことであり、非現実的な推理は明らかに無理のある推理のことである。ただし、すべての現実的な推理は可能な推理であり、すべての不可能な推理は非現実的な推理となることを仮定する。このとき、推理には現実的な推理、可能かつ非現実的な推理、不可能な推理のみが存在することになる。不可能かつ現実的な推理は考えないものとする。
次に、フェアネスの基準について考える。フェアネスの基準とは、真相と一致する正しい推理とその他の誤った推理の満たすべき条件によって構成されるとする。たとえば、最も強いフェアネスの基準は、正しい推理は現実的な推理でなければならず、誤った推理は不可能な推理でなければならない。一方で、最も弱いフェアネスの基準は、正しい推理は可能な推理でなければならず、誤った推理はどのような推理でもいい。私の観測上、大抵のミステリは、正しい推理は現実的な推理であることは成り立つけど、誤った推理は可能かつ非現実的な推理に収まることが多い印象がある。
最後に、くるみの『翡翠荘の殺人』のフェアネスの基準を検討する。正しい推理は現実的な推理と言っていいと思う。誤った推理は、すべての推理を吟味したわけではないけど、可能かつ非現実的な推理の範疇に収まっているかな。よって、一般的なミステリのフェアネスの基準には収まっていると言える。ただし、他の現実的な推理を見つけることができたら、もっと弱いフェアネスの基準にあることになる。
以上が私の審問」
静香はゆっくりと、それでいて淀みなく語った。くるみは顔をしかめながらメモを書きつけた。静香は表情を変えずに問う。
「わかりにくかった?」
くるみは慌ててメモを睨みつける。現実的な推理、可能かつ非現実的な推理、不可能な推理、フェアネスの基準は正しい推理と誤った推理の満たすべき条件―― くるみの頭の中で数々の曖昧な概念が無秩序に浮かんでは消えて、なかなか意味のある形にならない。続く沈黙に焦りを感じてくるみは匙を投げた。
「……えーっと、ちょっと全部はわからなかったかも、です」
チャイムが鳴った。最終下校時刻は午後六時、その十分前の予鈴だった。理子は口許に手を当てていた手を離して口を開く。
「静香、せっかくだからちゃんと評論として文章にまとめなよ。抽象的な表現も多かったから具体例も多めに入れたほうがわかりやすいと思う。面白そうな分析だし、また別で時間をとって皆で議論しよう。いいですよね、部長?」
瑠璃は鷹揚に頷いた。
「私としては問題ない。佐々木君はどうかな」
「はい、大丈夫です。でも、評論の執筆には時間がかかります。気長に待っていてください」
「もちろん。私は楽しみに待っているが、負担にならない程度で構わないよ」
「はい」
瑠璃はくるみに向き直る。
「それでは綾野君。最後に一言所見を述べてもらってもいいかな。それをもって薄暮の会を閉会とする」
くるみは頷いて唾を飲み込んだ。大きく息を吸い込む。
「今日は『翡翠荘の殺人』を読んでくれてありがとうございました。小説を、それもミステリを書くなんて初めてのことでした。なんだか、書く前よりも今のほうがミステリのことがわからなくなったような気がします。私は、正しい推理に至るための情報があればそれで十分フェアだと信じていました。でも、皆さんの意見を聞いて振り返ってみると不十分だったことに気づきました。作者の立場だと、どうしても真相ありきで出題編を読んでしまうのかもしれないです。次こそは、もっと面白くて、もっとフェアなミステリが書けるようになりたいです。ありがとうございました」
言い切ったくるみは頭を深く下げた。手はきつく握りしめられている。
「ありがとう、綾野君。それでは薄暮の会を閉会とする。諸君、素晴らしい作品を書いてくれた綾野君に拍手を」
部員たちはくるみに拍手を送った。
薄暮
「くるみ、私も駅まで一緒に帰っていい?」
校門を出たところでくるみは背後から自転車に乗った理子に声をかけられた。
「え、あ、はい」
戸惑いがちに答えた。くるみは向かっている駅が理子の家と逆方向なのを知っていた。理子は自転車から降りて白くて丸いヘルメットをカゴに放り込み、くるみの隣を自転車を押して歩く。カラカラと後輪から乾いた音が規則正しく聞こえる。
「私、すごく嬉しいんだ」
「何がですか?」
「くるみがミステリを書いてくれたこと」
くるみは目を伏せた。歩道の赤色のタイルを踏む。
「でも、ミステリ的にフェアじゃないんですよね?」
声が震えたのがくるみにもわかった。喉の奥からこみ上げてくる衝動をなんとか飲み込む。
「確かに公正審問ではアンフェアだと言ったね」
「理子先輩と文香ちゃんに言われたこと、考えてたんです。書いてるときはフェアだと思ってたはずなのに、言われてみたら全然アンフェアだなって思って」
「うん」
「どうして自分で気づけなかったんだろうって。書いたのは私なのに。私ってミステリのこと何もわかってなかったんだって。そう思ったら悔しくて」
くるみは足を止めた。理子も遅れて立ち止まり、振り返る。くるみは真っ直ぐ理子の見つめる。大きく深呼吸をする。仁王立ちするように足を開き、腰に手を当てて、宣言する。
「だから、次こそは最強にフェアで絶対に解けない本格ミステリを書いてきてやります! 覚悟してくださいね!!」
理子は驚いたように目を見開いて、それから小さく笑った。
「絶対に解けなかったらフェアじゃないよ」
「それはそうですけど、気持ちの話です!」
「あーあ、落ち込んでるから慰めてあげようと思ってたのに」
「私はそんなにやわなメンタルしてませんよ」
「そっか。じゃあ、次回作も期待してるね。くるみ先生?」
理子は眩しそうに目を細める。薄暗い夕暮れで陰影の濃くなった理子の表情はひどく大人びて見えた。もうすぐ夏だ、とくるみは思った。理子先輩はきっと夏がよく似合う。それも、夏の終わりの気だるい残暑の夜。
「暗くなってきたね。そろそろ帰ろうか」
「はい」
二人は手を振って別れた。街灯が点灯する。街にはそっと夜の帳が下りていた。




