第一話 『翡翠荘の殺人』 解答編(一)
帰還
「やあ。遅かったじゃないか」
部屋に戻るとベッドの上で大の字に横たわっていた瑠璃部長が体を起こした。元々いた窓際の机と椅子は濡れていて、絨毯もところどころ湿っている。
瑠璃部長は私の視線に気がついたようだった。
「新鮮な空気が吸いたくてね、窓を開けたんだ。そしたら雨が降り込んできて濡れてしまったよ」
冗談めかして言った。
「迂闊でしたね」
「全く、嵐なのは知っていたんだが」
「いえ、雨のことじゃないです。もし外部犯がいるなら、窓を開けるのは迂闊だったと言ったんです」
瑠璃部長の表情から笑みが消えた。
「そうだな。気をつけよう」
茜先輩は瑠璃部長の隣に座って、静香先輩の部屋で見つかった原稿用紙を差し出した。私と文香ちゃんは立ったまま二人を見守る。
「静香の部屋にこれがあったんだけど、どう思う? 瑠璃の意見が聞きたい」
「『探偵不在のクローズド・サークルにおける嵐の孤島と壜詰めの手紙の関係とその一般化について』 ――ふむ、佐々木君の評論か」
瑠璃部長は小さく呟いて原稿に目を走らせた。しばらくして溜息をつく。
「なるほどね。つまり、君たちは佐々木君を真壁君殺しの犯人と考えているわけだ」
「瑠璃は違うの?」
「確かに今私たちが置かれている状況を思えば、この評論は婉曲な殺意の表明と受け取ることもできなくはない。しかし、単なる偶然かもしれない。何よりも、佐々木君を犯人としたところで密室殺人と死体消失の謎は解決しない」
「物証ならありました。ガソリンの入ったポリタンクです。危険なので私の部屋に保管してあります。」
文香ちゃんの言葉に瑠璃部長は頷いた。
「なるほど。思い返してみれば昼間の佐々木君はやけに大荷物だった。ポリタンクの中身がガソリンであることはどうやって確かめたのかな」
「匂いです。もちろん、ガソリンだと断言できるわけじゃありませんけど」
「そうか。そうなると、この評論の殺意にも一定の説得力が出てくるわけだ」
「何か、納得できないことでもあるの?」
茜先輩は瑠璃部長に尋ねた。
「ああ。この評論と現実に起こっている事件には差異があるように思える」
「どのへんが?」
瑠璃部長は思案するように口に手を当てた。
「そうだな。もしもこの評論が殺意の表明であるならば、佐々木君は我々全員の殺害と翡翠荘の焼失を目的としているはずだ。首尾よく真壁君を殺害したはずなのに、その後は目立った行動をせず、結局ポリタンクも奪われてしまった。我々を襲うチャンスはいくらでもあったはずだ。なのに、計画の続きは実行されなかった」
ここまでは、私が文香ちゃんと茜先輩に話した推理とほぼ一致していた。瑠璃部長は冷静に推理を続ける。
「やはり密室殺人と死体消失が不可解だな。ハウダニット――どうやったかではなく、ホワイダニット――なぜやったかの問題だ。いや、それも少し違うか。工夫を凝らした密室殺人と死体消失を計画しながら、そのことに評論で言及していないことが不自然なんだ。やはり佐々木君が犯人であるとは考えにくい。佐々木君は確かに何かを企んでいたのかもしれないが、それは実現しなかったし、真壁君殺しとは無関係だった。 ――私はこう推理してみたが、どうかな?」
「確かに一理ありますが、佐々木先輩が真壁先輩の殺害と無関係とは言い切れないと思います。佐々木先輩は真壁先輩を殺害した後、何か不測の事態で計画を中止したのかもしれません。密室殺人と死体消失も計画外だったのかも」
文香ちゃんが指摘した。瑠璃部長は頷いて窓の外を見る。雨粒で覆われた窓ガラスの向こうに薄暗い曇天が広がっていた。
「そうだ、不測の事態があったのは間違いない。佐々木君が真壁君を殺したか否かは確かに断言できない。が、いずれにせよ佐々木君の計画は不測の事態によって失敗した。不測の事態とは何だろう? 嵐で交通を閉ざされタイムロッキングコンテナで通信を途絶させられたこの翡翠荘は、厳格に管理された試験管のようなものだ。そこで一体どんな不測の事態がありえるのか?私はこう考えた。翡翠荘にははじめから不純物が紛れ込んでいた、つまり第三者が隠れ潜んでいたのではないか――」
ノックの音が響いた。私は素早く振り返って扉を見た。鍵が施錠されていない。私たちの誰もその場から動けずに、ドアノブがゆっくり回って扉が開くのを息を呑んで見守るしかなかった。廊下の暗がりに人影が浮かび、やがて部屋に足を踏み入れた。背後でゆっくりと扉が閉まる。
濡れた白いブラウスが肌にはりついていた。湿った髪が頬にかかり、すぐ下にミミズのような引っかき傷がのたうっている。靴には乾きかけた泥がこびりつき、わずかに血の痕がにじんでいる。
彼女は震える声で言った。
「……皆……よかった」
胸が熱くなった。喉の奥が震え、私は思わず叫んでいた。
「理子先輩!」
私は理子先輩に抱きついた。先輩の体はまだ冷たくて、怯えた子犬のように震えていた。私が濡れるのは構わない。それよりも、先輩が生きている実感をこの胸で感じられることが何よりも嬉しかった。
「くるみ……心配かけてごめんね」
「先輩。生きてて、よかったです」
理子先輩が私の頭を優しく撫でた。 ――ああ、この人はどれだけ辛く苦しい思いをしたのだろう。そして、この人を待ち受ける運命はどれほど残酷なのだろう。
「これで決まりだな」
瑠璃部長が立ち上がった。
「致死量の血痕。行方不明者は二人。そのうちの一人である真壁君は生きて帰った。となれば、明白な帰結として死者は佐々木君だったということになる。佐々木君の計画が事実だったと仮定して、それは不測の事態によって中止された。不測の事態とは何か。翡翠荘に隠れ潜んでいた第三者が佐々木君を殺害したのだ。 ――どうかな、真壁君?」
理子先輩は私の肩に手を置いて引き離した。私はじっと理子先輩の瞳を覗き込む。理子先輩は目を伏せて、逡巡するように頭を振った。そして、顔を上げたときには唇を堅く結んでいた。
「静香は、私の目の前で殺された。犯人は五十代の大柄で白髪混じりの男。過去の犯罪のために指名手配されていて、時効まで翡翠荘に潜伏するつもりだったと言っていた」
理子先輩は努めて冷静に正確に事実を伝えようとしているように見えた。
「くるみが来る前、静香が部屋に来た。彼女はミステリについての話がしたいと言っていた。私も小説に苦戦していたし、いい気分転換になると思ったから応じた。それから、三十分くらいは議論したかな。嵐の孤島や壜詰めの手紙について」
あの評論の内容だ、と思った。
「でも、話が現実の犯罪に及ぶと静香の様子がおかしくなった。現実の犯罪は小説のように美しくないとか、もっと計画を立てて新規性のある犯罪を試みるべきだとか言ってたかな。とにかく異常に興奮していた」
理子は一度話を止める。
「水でも飲むかい?」
瑠璃部長は持ち込んでいた缶詰などの食料や飲料水の中からペットボトルの水を差し出した。
「ありがとう、ございます」
水を飲んだ理子先輩は何度か深呼吸を繰り返した。
「どこまで話したかな。静香は興奮気味に現実の犯罪論について語っていたところまでか。突然、扉が開いて大柄な壮年の男が入ってきた。男は静香に向かってどういうつもりかと訊いた。静香は舌打ちをしてポケットに隠し持っていたナイフを男に向けた。私はわけがわからなかった。くるみが部屋に来たのはこのとき。静香と男は揉み合いになって、男がナイフを奪って静香を刺した。私はただ、目の前で静香が死にゆくのを見ていることしかできなかった。男は黙って静香を窓から投げ捨てて、死体の隠蔽を手伝うように命令した。私は恐ろしくて従うしかなかった。扉を開けるとくるみが気を失っていた。私と男はくるみを置いて翡翠荘を出て、静香の死体を山の奥に埋めた。男は私のことを見逃してくれて、どこかに逃げた。そして、私はこうして翡翠荘に帰ってきた。これが私の話せる事実」
私たちはしばらく黙って理子先輩の話をゆっくりと噛み砕いていた。瑠璃部長が真っ先に口を開く。
「ふむ。話してくれてありがとう。さぞ大変だっただろう」
さらに質問を続ける。
「よくわからないのは、犯人の男が何をしたかったか、だ。つまり動機だね。指名手配されていて翡翠荘に潜んでいたのはいい。ここは絶好の隠れ家だ。それでは、時効まで隠れ潜むつもりだった男がなぜ佐々木君を殺害したのだろうか? そして、なぜ真壁君を逃してくれたのだろうか?」
「これは、死体を山に埋めているときに男が話したことなんですが、もともとは地下室で私たちをやり過ごすつもりだったらしいです。でも、静香は私の部屋に来る前に地下室にガソリンのポリタンクをいくつか持っていった。不審に思った男は静香を尾行して私たちの会話を外からこっそり外から聞いていたと。話の内容から、静香が事件を起こすことを確信した男は殺すことにしたそうです。理由は二つ。ひとつは、派手な事件を起こされて自分に注目が集まる可能性を嫌ったこと。もうひとつは、身勝手な殺人が許せなかったこと。今も昔も、死んだほうがいい人間を殺しただけで不必要な殺しはしないと、男はそう言っていました」
「ふむ。興味深い犯人だ。独善的な倫理観だが、私たちは彼のおかげで救われたのかもしれないな」
雨と風が窓ガラスを叩いている。隙間風が悲鳴のように響いている。しばらくの間、私たちは誰も何も言わなかった。
「もう、やめませんか? こういうの」
心に満ちた悲しみがこぼれ落ちるように、私はポツリと呟いた。ゆっくりと「彼女」と対峙して、その瞳を射抜くようにじっと見つめる。そして、言う。
「犯人はあなたですね――理子先輩」
理子先輩は目を大きく見開く。
「くるみは私のこと、信じてくれないの?」
慈悲を乞うように哀れっぽく涙ぐんだ声だった。
「私、本当に怖くて、やっとくるみとも生きて会えたのに。どうしてそんなことを言うの?」
「ダメですよ」
みじめな理子先輩を見ていたくなくて、私は声に強い拒絶をにじませた。
「普段の理子先輩だったらそんなことは言いません。そんな、ただ感情に訴えかけて押し通すようなことは。そうでしょ?」
糸の切れた操り人形のように理子先輩の全身から力が抜けたような気がした。静かな悲しみを湛えたまま穏やかに微笑する。
「私だって、血の通った一人の人間なんだけどな。でも、くるみは納得してくれないんだね。 ――それじゃ、聞かせて。くるみの推理を」




