第45話 雨降って地固まる?
木の香りが、ゆっくりと鼻腔をくすぐった。
厚みのあるカウンター。使い込まれたテーブル。壁には、無骨な鉄鍋や包丁がそのまま飾られている。
ここは、レグルス隊が戦いのあとに必ず立ち寄る――馴染みのステーキ屋だった。
生きて帰った者だけが座れる場所。
血と泥を洗い流し、腹を満たすための、ささやかな祝宴の場。
「……これがヒュドラ肉のステーキか」
レグルスがそう言って、テーブルを見渡す。
卓上には、分厚く切り出された肉が次々と並べられていた。
――ヒュドラ肉。
焼ける音とともに、香ばしい匂いが立ちのぼる。
本来なら、近づくだけで神経を侵す猛毒を孕むはずの素材だ。だが、鉄板の上の肉からは、嫌な気配が一切しなかった。
「……本当に、毒がない」
店主が首を傾げる。
何度も扱ってきた魔獣肉とは、明らかに違う感触だった。
理由は、すぐに分かった。
下ごしらえの途中、マールが何気なく肉に触れた瞬間――わずかに残っていた毒気が、霧が晴れるように消えたのだ。
「え……?」
調理人も、店主も、目を見開く。
だが同じことを他の食材で試しても、変化は起きない。
「ヒュドラ肉だけ、か……」
誰かが低く呟いた。
今回限りの、どう考えても例外的な現象だった。
当のマールは、困ったように首を傾げている。
「えっと……ごめんなさい。マール、なにもしてない……と、思う」
そう言われても、周囲は納得できない。
だが追及しても、本人に心当たりがない以上、答えは出なかった。
「まぁいい。今日は無礼講だ、どんどん飲んで、どんどん食うぞ!」
「「「「おおおおおぉ!!」」」」
レグルスの合図でジョッキが運ばれ、宴が始まる。
酒が注がれ、肉が切り分けられ、皿が空いていく。
その中で、ブリュンヒルデが静かに口を開いた。
「……レグルス。私から報告がある」
場の空気が、わずかに引き締まる。
「クラウスは、魔の森で行方不明になった。もしかすると、魔獣の胃の中かもしれない」
一瞬、音が消えた。
レグルスは、表情を変えないまま、グラスを傾ける。
「まぁ、自業自得だな。アイツらしい最期だろう」
それだけだった。
酒を飲み干し、短く息を吐く。
ブリュンヒルデも反論しなかった。
「「………………」」
自然とふたりの空間となり、無言の時間が流れていく。
周りは宴会らしく騒がしくあるが、他の仲間たちもこの元恋人たちが数年ぶりの再会であることは当然知っている。あえて二人の時間を邪魔をしようとはしない。
ブリュンヒルデは、視線を伏せたまま、ゆっくりと言葉を選んだ。
「あのとき……言えなかったことがある」
判断を誤ったこと。
守るべきものより、立場を優先してしまったこと。
そして、その結果、失ったものの重さ。
「あの日からずっと、謝りたかった。――すまなかった」
はっきりとした声だった。
言い訳はない。
レグルスは、しばらく黙っていたが、やがて低く答えた。
「俺も悪かった」
短い一言。
「大人げなかった」
それ以上は言わない。
だが、それで十分だった。
張りつめていた空気が、少しだけ緩む。
完全に元通りではない。
それでも、壊れたままではなくなった――そんな感触。
「で?」
その空気を、あっさり壊したのはフリッツだった。
「仲直りもしたことですし。お二人さん、恋人に戻るんすか?」
次の瞬間。
「「お前は余計な口を挟むな!」」
二人の声が、見事に重なった。
同時に、顔が赤く染まる。
一拍。
そして、店内に笑い声が弾けた。
「私はこれから帝都に戻り、此度のことを龍帝陛下に報告してこようと思う」
笑い声が落ち着くころ、ブリュンヒルデは席を立った。
「……そうか。見送りは必要か?」
「ははは、不要だよ。それに生きている限り、また会えるだろう?」
あまりにもあっさりとした別れ。だが数年前に決別したときとは違って、温かい雰囲気だ。それを嬉しく思いつつ、ブリュンヒルデは「すぐに戻ってくるつもりだしな」という言葉は飲み込み、ひと言だけ「ありがとう」と告げて店を出た。
一方、別のテーブルにて。
レティシアはマールの隣席でため息をついていた。
「はぁ~、今回のことは本当に疲れたわ。魔の森で魔獣の群れを一日中殴ってた方が、よっぽどマシよ」
そう言いながら、彼女は遠慮なくフォークを伸ばす。
皿の上のヒュドラ肉を一切れ突き刺し、豪快に口へ運んだ。
「ん……美味しい。これを食べられただけで、頑張った甲斐があるかも」
噛みしめるたびに、肉汁が弾ける。
濃厚で、力強い味。
「……でもおかしいわね」
次の一切れに手を伸ばしながら、レティシアは眉を寄せた。
「なんだか、魔力の回復量が異常に多い気がするわ」
単に美味い、で済ませられない。
身体の奥が、じわじわと満たされていく感覚。
戦いの疲労が、思った以上の速度で消えていく。
「やっぱり、ヒュドラってすごいんだね……」
マールが、感心したように呟く。
そのときだった。




