第43話 ヒーローは遅れてやってくる
魔の森・中層深部。
脱皮を終えたヒュドラの瘴気が、森全体を覆い尽くしていた。
視界は白く濁り、呼吸のたびに喉と肺が灼けるように痛む。毒と魔力が混じり合った瘴気は、生き物であることそのものを拒絶するかのようだった。
その只中で、ブリュンヒルデは地面に片膝をついていた。
剣を支えにしなければ、立っていることすら難しい。
魔力はほとんど底を突き、身体の末端からじわじわと痺れが広がっている。直接毒を浴びたわけではない。それでも、瘴気が確実に体内へ侵食してきていた。
(くっ、隊は壊滅か……)
周囲に転がるのは、倒れ伏した兵たちの姿だった。
数十人は居たはずだが、息のある者は半数ほどしかいない。呻き声だけが戦場を支配している。
――無理もない。
ヒュドラは、すでに“脱皮後”の個体だった。
以前とは比べものにならないほど肥大した巨体。再生力も、瘴気の濃度も、すべてが桁違いだ。
その巨躯が、ゆっくりと前進してくる。
地面が揺れ、枯れ木が倒れ、瘴気が波打つ。逃げ場は、もうどこにもない。
ブリュンヒルデは歯を食いしばった。
(……それでも)
ここで止めなければならない。
この一線を越えさせれば、森の外――街へ、国へ、被害は雪崩れ込む。
自分は軍人だ。
結果を出せなかったとしても、足止めだけは――。
彼女は震える指で魔力をかき集める。さいごに残された、全力の一撃。命を削る覚悟で放つ魔法だった。
その瞬間。
森の空気が、裂けた。
「――いたぞ、あそこだ!」
鋭く、短い声。
だがそれは、瘴気に沈みかけた戦場を一瞬で貫いた。
次の瞬間、横合いから強烈な衝撃が走る。
ヒュドラの注意が、ブリュンヒルデから逸れた。
木々の間から、複数の影が飛び込んでくる。
無駄のない動き。迷いのない足運び。
見覚えのある背中が、最前線に立った。
「……レグルス?」
思わず零れた声は、かすれていた。
自然と、ブリュンヒルデの頬を温かいものが伝っていく。
「大丈夫か? よく耐えたな」
「……ああ。だが私は多くの犠牲を――」
「いや、お前は立派に務めを果たした。……後は俺たちに任せろ」
剣を構えた男は、振り返らない。
ただ短く状況を見渡し、即座に判断を下す。
「無理に攻めるな――まずは毒霧を魔法で散らし、そのあとにヒュドラの動きを制限しろ」
短く、落ち着いた声。
最初に動いたのは、後方の弓兵だった。
「じゃあ俺の出番っすね」
フリッツが一歩前へ出る。
風に揺れるフードの隙間から、やけに長い耳が覗いた。
龍人とは明らかに異なる輪郭。
だが彼自身は、そんなことを意識する素振りも見せない。
「……風よ」
低く詠唱が紡がれる。
弓に番えられた矢が、淡く光を帯びた。
「――我が命に従い、流星の如く奔れ」
放たれた矢は、風精霊の加護を受けて空気を裂く。直線ではない。風に乗り、ヒュドラの周囲を旋回するように飛翔した。
「――凍れ」
フリッツが指を鳴らした瞬間、矢が炸裂する。
同時に氷精霊の力が解放され、ヒュドラの吐き出した毒霧が空中で凍りついた。白く濁っていた瘴気が、ばらばらと音を立てて砕け散る。
「……効いてるぞ!」
誰かの声が上がる。
毒霧を完全に無効化できたわけではない。
だが、確実に“安全な空間”が生まれていた。
その隙を逃さず、別の影が駆ける。
「動かないでください」
淡々とした声。
ドクペインだった。
彼は倒れた兵士の脇に膝をつき、迷いなく薬瓶を取り出す。
中身は、透明ではない。
どこか不穏な色をした黒い液体だった。
「いいですか。これは解毒薬ではありません。私が魔の森で採取した毒を配合した、ヒュドラ毒とは異なる“毒薬”です」
意識の朦朧とした兵士の口をこじ開け、流し込む。毒というワードに、兵士の身体がびくりと跳ねた。
「毒をもって毒を制す……一時的に強力な回復力を得られます。代償は大きいですが、死にはしません。効果が切れたら一週間はベッドから動けなくなる程度です」
「……それで生き残れるなら、安いもんだ」
掠れた声でそう言い、兵士は立ち上がった。
そうしてドクペインは、次々と兵士を治療(?)していく。
ふらつきながらも、前線へ戻る者。
別の負傷兵のもとへ向かう者。
生きるために、各々が役割を果たす。
「俺もやるぜ」
次に、地面が鳴った。
――ダンッ。
巨漢が、四股を踏んだ。
「ドワーフの本領、見せてやる」
アッポロだった。
全身の筋肉を軋ませながら、天ではなく地へ祈りを捧げる。
「偉大なる大地の精霊タイタンよ、今ここに顕現せよ――」
足元が震え、地面が盛り上がる。
隆起した土塊が、ヒュドラを包囲するように壁を成した。まるでゲージに入れられた蛇のように、ヒュドラは逃げ場を失った。
「まだまだ行くぞ!」
さらには、追撃とばかりに地面から土の塊が勢いよく射出される。
まるで大砲だ。
重く、鈍い衝撃音が連続して響き、ヒュドラの巨体を叩きつけた。それでも息の根を止めるまではいかないようだが、動きは明らかに鈍った。
そして――。
「マール、外からの攻撃だけをはじく結界を頼む」
「アタシにもお願い!」
レグルスとレティシアが並び立つ。
マールは一瞬だけ頷いた。次の瞬間、レグルスとレティシアの周囲をドーム状の結界が包み込む。
「……行くわよ」
身体の一部が、龍のそれへと変質する。
鱗が現れ、魔力が跳ね上がる。
彼女は大きく息を吸い込み――氷のブレスを吐いた。
だが、ヒュドラも黙ってはいない。
毒のブレスが、真正面から叩きつけられる。
(……ちっ、さすがは蛇神。このままじゃ、押し負けるわ)
レティシアがそう判断した、その瞬間だった。
轟音とともに、別の熱が戦場を貫いた。
炎のブレス。
レティシアの横で、同じように“龍化”したレグルスが、それを放っていた。
「……なっ!?」
王族の直系しか龍化できないはず――そんな疑問が、レティシアの頭をよぎる。
「目の前の敵に集中しろ」
レグルスは冷静だった。
「今は、協力してアイツを倒すぞ」
「……あとで、絶対に説明しなさいよ!」
怒鳴り返しながらも、レティシアは了承した。
次の瞬間。
氷と炎のブレスが、両側からヒュドラへと叩き込まれる。
氷と炎が、交差する。
相反する二つの属性が、衝突ではなく“噛み合う”形でヒュドラを包み込んだ。
瞬間的に生じた温度差が空気を歪ませ、瘴気を押し流す。
その最中でも――マールは動いていた。
小さな手が宙をなぞるたび、この場に居る一人一人に結界が展開されていく。毒を遮断し、瘴気の流れを切り分け、戦場そのものを掌握する。
「これなら撤退できる……いや、ヒュドラを倒せるぞ!」
誰かが呟いた。
次の瞬間には、負傷兵が運ばれ、次の兵が前線へ送られる。
戦場が、機能し始めていた。
その光景を、ブリュンヒルデは呆然と見つめていた。
(……戦況が一気にひっくり返った)
自分たちの戦いとは、根本から違う。誰かが命を張る前提ではない。誰かが犠牲になる前提でもない。確実に生きて帰るための、戦闘だった。
(本当に勝ってしまうのか? あの蛇神に…………?)
絶望しかけていたブリュンヒルデの心に、希望という光が差し込み始めた――そのとき。
「なぜだ!? いくら攻撃しても、ヒュドラの再生が止まらないっ!」
「頭に心臓が無いんだ。急所を探さないとキリがない……なんだ? ヒュドラの尻尾が地面に潜ったぞ!」
ヒュドラが、低く嗤った。
――おのれ、傲慢な人間どもめ。このまま死んでたまるものか。
「……っ!? しまった!」
直後、轟音とともに地面が割れる。
マールの結界は地上のみ。結界をかいくぐり、地中から飛び出したのは――もうひとつの頭。
牙が並び、魔力が凝縮された“真の頭”。
同時に、鼓動する“心臓”が、口内の奥に露出していた。
狙いは、ただ一つ。
「マール!!」
レグルスの叫びは、一瞬遅かった。
真下から突き上げるように現れたヒュドラの頭が、結界の隙を突き、少女を飲み込み道連れにせんとする。
マールの視界いっぱいに、牙と闇が迫る。
「……え?」
だが闇は訪れなかった。
理解するより先に、世界が白く染まった。
――光。
それは炎でも、氷でもなかった。
ただ、圧倒的に“澄んだ”光。
「探しましたよ、我が姫」
次の瞬間、戦場の時間が止まったかのように感じられた。
マールとヒュドラの間に、一人の男が立っていた。
「……え、だれ……?」
「ア、アイツは……」
冷静を崩さないレグルスが、息を呑んだ。
鬼の仮面。
白銀の光を纏う剣。
その人物とは――
グオォオオオ!!
鬼仮面の背後で、ヒュドラが苛立たしげに咆哮する。空気が震え、瘴気が荒れ狂う。
「うるさい蛇ですね」
鬼面の男は、ようやくヒュドラへと視線を向ける。
「せっかくの再会を、邪魔しないでください」
光が、走った。
次の瞬間。
ヒュドラの真の頭と心臓が、音もなく消し飛んだ。
「なっ……」
戦場に残されたのは呆然と立ち尽くす者たちと、マールの前に立つ謎の騎士だけだった。




