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第42話 蛇神の逆鱗(微ざまぁ)

 

 ――ぐにゃり。


 何かが、軋む音だった。


 倒れ伏したはずの巨体の内側から、骨でも岩でもない、不快な摩擦音が響く。次の瞬間、地面に伏せていたヒュドラの胴が、わずかに持ち上がった。


「……は?」


 誰かの喉から、間の抜けた声が零れる。


 ひび割れが走る。

 鱗に覆われた外殻が、内側から押し広げられるように盛り上がり――


 ばきり、と。


 鈍い音を立てて、裂けた。



 剥がれ落ちる。巨大な皮が、役目を終えた抜け殻のようにずるりと滑り落ち、地面に叩きつけられる。


 脱皮。


 その内側から現れたのは、先ほどまでとは明らかに異なる存在だった。


 紫の鱗は艶を帯び、首の動きは滑らかで無駄がない。呼吸に混じる瘴気は濃度を増し、空間そのものを侵食するかのように広がっていく。


 魔の森が、震えた。


 地鳴りが走り、木々が(きし)み、瘴気が爆発的に噴き上がる。

 森全体が、災厄の覚醒を告げていた。



「……っ、なんだこいつは」

「さっきまでと雰囲気が違うぞ……!」


 誰かが叫ぶ。


 先ほどまでのヒュドラは、ただ動きが鈍っていただけだった。

 傷ついていたのではない。

 消耗していたのでもない。


 ――準備運動が、終わっただけだ。



 真のヒュドラが、ゆっくりと首を持ち上げる。


 その威圧は、別次元だった。

 立っているだけで、膝が笑う。呼吸をするだけで、肺が拒絶する。


 次の瞬間。

 首が、振るわれた。


 鞭のようにしなった首が横()ぎに走り、前線から一歩下がっていたアウトロー傭兵たちをまとめて薙ぎ払う。悲鳴が上がり、身体が宙を舞う。


 毒が撒き散らされる。

 霧は先ほどとは比べものにならない速度と濃度で広がり、逃げ遅れた者たちの姿を、あっという間に覆い隠した。



「逃げろ!」

「無理だ、速すぎる!」


 連携は、あっという間に崩壊した。

 誰もが我先にと背を向け、叫び、走る。


 ――だが、遅い。

 雇った傭兵たちが、目の前で毒霧に飲まれて消えていく。


(な……なんだ、これは……)


 想定外。

 理解不能。


 英雄譚の中に、こんな展開はなかった。自分が知っている戦争にも、戦術にも、こんな“化け物”は存在しない。


 恐怖が、思考を塗り潰す。

 死の霧がクラウスに忍び寄り、その整った顔を溶かし始め――



(死ぬ……!)


 その瞬間、彼が出せる判断は一つしかなかった。


「撤退だ!」


 後ずさりながら、クラウスは叫ぶ。


「生き残っている奴は退路を確保しろ!」


 脳で考えたのではなく、反射的に出た言葉だった。


 理屈でも戦術でもない。

 自分が生き延びるためだけの命令。



 そして。

 その視線が、前線へ向いた。


 ブリュンヒルデ。

 まだ陣を保ち、正規兵をまとめ、ヒュドラの注意を引きつけている存在。


 ――あれを、残す。



 ブリュンヒルデは、その視線に気づいた。クラウスの目を見て、すべてを理解する。


(……ここで、捨てるのか)


 自分たちを。命を懸けて戦い続けている部下たちを。だが、彼女は歯を食いしばり、前へ出た。


「まだ動ける者は負傷者を担いで下がれ! 私が後退路を開く!」


 叫びながら、火炎を放つ。

 誰かを逃がすため。

 この災厄を、森の外へ出さないため。


 軍人として、最後まで役目を果たすために。



 一方。

 クラウスは、振り返らなかった。


 部下の悲鳴も、崩れゆく陣も、視界から切り捨てる。ただ、自分の生存だけを抱えて、森の奥から逃げ去っていく。


 英雄になりたかった男が、

 最も英雄から遠い行動を取った瞬間だった。



 ◆


「はぁ……はぁ、はぁ……」


 クラウスがこの場を去ってから、どれだけの時間が経っただろうか。もしかしたら数時間かもしれないし、数分しか過ぎていないかもしれない。


 ただ確実に、ブリュンヒルデの隊員たちは徐々に数を減らしていった。


(マズイな。毒霧は回避しているはずだが、身体が動かなくなってきた……)


 視界は白く濁り、呼吸のたびに喉と肺が()けるように痛む。毒と魔力が混じり合った瘴気は、ブリュンヒルデの身体を徐々に蝕んでいた。



「くっ……」


 遂に、ブリュンヒルデは地面に片膝をついてしまう。


 剣を支えにしなければ、立っていることすら難しい。

 魔力はほとんど底を突き、身体の末端からじわじわと痺れが広がっている。


(隊は……壊滅か……)


 周囲に転がるのは、倒れ伏した兵たちの姿だった。

 数十人は居たはずだが、息のある者は半数ほどしかいない。(うめ)き声だけが戦場を支配している。


 ――無理もない。


 現在のヒュドラは、“脱皮前”とはまったくの別物だった。

 以前とは比べものにならないほど肥大した巨体。再生力も、瘴気の濃度も、すべてが桁違いだ。


 その巨躯が、ゆっくりと前進してくる。

 地面が揺れ、枯れ木が倒れ、瘴気が波打つ。逃げ場は、もうどこにもない。


 ブリュンヒルデは歯を食いしばった。



(……それでも)


 ここで止めなければならない。

 この一線を越えさせれば、森の外――街へ、国へ、被害は雪崩れ込む。


 自分は軍人だ。

 結果を出せなかったとしても、足止めだけは――。


 彼女は震える指で魔力をかき集める。さいごに残された、全力の一撃。命を削る覚悟で放つ魔法だった。


 その瞬間。

 森の空気が、裂けた。



「――いたぞ、あそこだ!」


 鋭く、短い男性の声。

 だがそれは、絶望に沈みかけた戦場を一瞬で貫いた。



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