第41話 恐怖の森
瘴気が、喉に絡みつく。
魔の森・中層深部。
視界は常に灰色がかり、数歩先の輪郭すら曖昧だった。湿った地面には、巨大な生物が這いずった痕跡が何本も刻まれている。溝の底には、虹色に濁った水溜まり。触れればただでは済まないと、本能が告げていた。
――ここは、間違いなくヒュドラの“棲み処”だ。
その中心に、クラウスの部隊は布陣していた。
配置は単純で、露骨だった。
正面。瘴気が最も濃く、逃げ場のない位置に、正規兵の集団。その先頭に立つのは、ブリュンヒルデだった。
「お前たちは難しいことを考える必要はない。俺様が止めを刺すまで、ヒュドラの相手さえしていればいい」
事前にクラウスが彼女らに与えた指示は、簡潔だった。聞こえはいい。だが、その言葉の裏にある意味を、前線に立つ者たちは正確に理解していた。
――囮だ。
ブリュンヒルデは、周囲を一瞥する。
正規兵たちの顔色は硬い。手にした武器を握る指先が、微かに震えている者もいる。
それでも、ブリュンヒルデは一歩も引かなかった。胸の奥で、静かに考える。
(私たちがここで死ねば、帝国民は助かる……逃げるという選択肢はない)
それが軍の判断なら。
それが、国を守るための選択なら。
――軍人として、受け入れるべきだ。
彼女は、深く息を吸い込む。
瘴気が肺を刺す感覚すら、もう気にならなかった。
「総員、武器を構えろ」
一方。
後方の高所で、クラウスは戦場を見下ろしていた。
瘴気越しに見えるのは、布陣した駒たち。
自分の指示通りに動く部隊。
整然と配置された戦力。
(問題ない)
内心で、そう結論づける。
計算は合っている。
多少の犠牲は出るだろう。
だが、それは想定内だ。
(英雄は、全員を救う必要はない)
胸の奥で、その言葉を繰り返す。
結果を出せばいい。
討伐に成功すれば、すべては正当化される。
クラウスは、剣の柄に手を置いたまま、遠巻きに戦場を眺め続けていた。
――自分が、全体を指揮していると。
そう、信じ込んだまま。
その時だった。
瘴気が、渦を巻いた。
空気が押し潰されるような圧迫感が走り、地面に溜まっていた毒水が、びくりと跳ねる。次の瞬間――
低く、腹の底に響く咆哮が、森全体を揺らした。
辺りの木々をなぎ倒しながら現れたのは、巨躯。大木の幹ほどもある首が幾重にも絡み合い、重なり合った影が一つの山のように迫り出す。鱗に覆われた胴体からは、瘴気が呼吸のたびに噴き出していた。
ヒュドラ。帝国神話に名を刻む、災厄そのもの。
――でかい。
誰かが、喉を鳴らした。
後方にいたクラウスでさえ、思わず息を呑む。
(……これ程の存在感だとは)
書物や報告で知っていた姿とは、まるで違う。眼前の存在は、理屈より先に恐怖を叩きつけてきた。
前線の空気が、一瞬で凍りつく。
正規兵の中に、明らかに動きが止まる者が出た。
その時だった。
「怯むな!」
ブリュンヒルデの声が、鋭く響く。
「相手は神でも怪物でもない! 我ら帝国に仇なす、倒すべき“敵”だ!」
震えかけた兵の視線が、彼女に集まる。
「今ここで踏みとどまれ! 敵の進む先に居るのは守るべき民。この森から、災厄を出すな!」
強く、迷いのない声だった。
恐怖を否定しない。
だが、それ以上の覚悟で上書きする。
その姿は、かつて彼女が見てきた背中と重なっていた。誰よりも前に立ち、誰よりも恐怖を受け止めていた男――レグルス。
(……あの人みたいに)
ブリュンヒルデは、無意識のうちにそう願っていた。
退役したあの日から、ずっと。
「――火炎、斉射!」
号令と同時に、彼女の魔力が奔流となって解き放たれる。巨大な火炎が、ヒュドラの胴へ叩きつけられた。
続けざまに、帝国兵の魔法と投槍が飛ぶ。
統率の取れた一斉攻撃。
ヒュドラが、咆哮を上げた。
毒の霧が噴き出し、地面を這うように広がっていく。
「毒は避けろ! 最小人数の隊で臨機応変に動きつつ、全体の陣形は保つんだ!」
ブリュンヒルデは前に出続ける。
炎で霧を押し返し、兵たちの視界を確保する。
だが――。
「ぎゃああぁ――……」
霧の向こうで、悲鳴が一つ、途切れた。
叫び声は、途中で押し潰されたように消える。
誰も、そちらを振り返らなかった。
振り返れなかった。
激戦は、長く続いた。
首は斬られても再生し、毒は絶え間なく撒き散らされる。
質量差は、努力で埋められるものではない。
それでも。
やがて、ヒュドラの動きが鈍った。
いくつかの首が垂れ下がり、呼吸に混じる瘴気が薄れる。
「……いけるぞ!」
誰かが叫ぶ。
その瞬間を待っていたかのように、後方が動いた。
「今だ! 突っ込め!」
クラウスの号令。アウトローの傭兵たちが、一斉に前へ躍り出る。統率はとれてなどいないが、火力だけで言えば帝国軍よりも勝っていた。
集中攻撃。
刃と魔法が、ヒュドラに叩き込まれる。
――ズウゥン。
巨体が、崩れ落ちた。
地響きのような音のあとの、一瞬の沈黙。そして――。
「やったぞ!」
「討伐成功だ!」
歓声が上がる。
瘴気の中で、勝利の叫びだけが響いた。
クラウスは、強く拳を握り締める。
(……勝った)
胸の奥で、確信が弾けた。
(俺の判断は正しかった。俺こそが、この戦を導いた)
恐怖は、達成感に上書きされる。
視界に映るのは、倒れ伏した神話級の影。
「俺たちの勝利だ!」
クラウスは声を張り上げる。
「戦果を回収しろ! それが終われば街で凱旋だ!」
その命令が、戦場に走った。
そして。
絶命したはずのヒュドラが再び起き上がった。




