第39話 英雄願望
<軍がカルデサックへ遠征する少し前・クラウス視点>
帝都の空は、いつだって澄み切っている。
少なくとも――クラウスの記憶の中では、そうだった。
整然と並ぶ石造りの街路。磨き上げられた白壁の建物。訓練場に響く号令と、規律正しく揃った軍靴の音。その中心で、彼は常に「正しい側」に立っていた。
討伐報告。
戦果の提出。
上官からの労いの言葉。
帝都に戻るたび、彼は書類の山を積み上げ、戦況を簡潔にまとめ、成果を数字に落とし込んできた。
「よくやった」
「見事な指揮だった」
そう言われ、肩章は少しずつ重くなった。
少佐から中佐へ。やがて将官への道も見え始める。
表彰式では、壇上で名を呼ばれ、整列した兵の前で胸を張った。拍手もあった。祝辞もあった。だが――
そこに、物語はなかった。
吟遊詩人が酒場で歌うような英雄譚。
子どもたちが憧れの眼差しで見上げるような武勲。
そういうものは、いつだって別の誰かのものだった。
(……おかしい)
クラウスは、内心で何度もそう繰り返した。
自分は正しい。
自分は優秀だ。
判断を誤ったことなど、一度もない。
それなのに――名が残らない。
帝都の勲功者の石碑に刻まれることもなく、噂話として街を巡ることもない。彼の功績はすべて、組織の中に吸い込まれ、軍という巨大な装置の一部として処理されていく。
思考が、自然と数年前の出来事へと引き戻される。
――砦奪還。
――ベノムイーグル討伐。
結果は「成功」だった。
魔獣は討たれ、象徴的な拠点は奪還された。報告書の数字も、申し分ない。
それなのに。
(なぜだ)
誰かの思い出話にあがるのは、あの名前だった。
レグルス。
命令違反を犯し、部隊を引かせた男。
本来なら処罰されるべき存在。
にもかかわらず、上層部の一部は、あろうことか彼を「英雄的判断だった」などと評した。
(……ふざけるな)
苛立ちが、胸の奥で渦を巻く。
作戦を立案し、全体を動かしたのは誰だ。
象徴的成果を示したのは誰だ。
それなのに、称賛されるのは前線の一兵卒上がり。語られるのは「多くを救った男」の美談。
(功績を奪われた)
そう思った瞬間、クラウスの中で、歪んだ納得が生まれた。
自分は間違っていない。
評価されないのが、おかしいのだ。
好いている部下と親密なのも気に入らない。
――ならば。
彼は、ふと考えを巡らせる。
数字ではなく。
報告書でもなく。
組織の一部としてではなく。
誰もが一目で分かる「偉業」。
誰もが口を揃えて語る「英雄譚」。
そこに必要なのは、ただ一つ。
神話級の魔獣。
誰もが恐れ、誰も討ったことのない存在。
「……ヒュドラだ」
低く呟いたその名に、確信が宿る。
ヒュドラ討伐こそが、自分を“本物の英雄”へと押し上げる唯一の道。
その瞬間、クラウスの中で、迷いは消えた。
「カルデサックに向かうぞ。英雄譚はここから始まる。ククク、楽しみだ」
◇
<カルデサックの街>
カルデサックの街は、もともと荒っぽい空気を孕んでいる。
魔の森との境界に位置し、流れ着くのは命知らずと訳ありばかり。酒場には常に怒号と笑い声が渦巻き、路地裏には剣と金の匂いが染みついている。
だが――それでも、一定の秩序は保たれていた。ギルドという“枠”がある限り、暴力は管理され、殺しは仕事として線を引かれていたのだ。
しかしクラウスは、その枠なんてものは最初から眼中になかった。
昼間から酒場を巡り、裏通りへ足を向ける。
ギルド掲示板の前ではなく、酔客と血の匂いが混じる場所を選んだ。
「仕事がある」
声をかける相手は、選んでいる。
鎧はくたびれ、剣には手入れの跡が残る。
周囲を睨む目に、迷いがない。
――腕は確か。
だが、規律を嫌い、命令を嘲笑し、信じるのは金と自分の腕だけ。そういう連中ばかりだった。
「討伐対象は?」
「魔獣か? “それ以外”か?」
探るような視線を受けても、クラウスは気に留めない。
「ヒュドラだ」
その一言で、空気が変わる。
嘲り。
驚愕。
そして――欲。
「正気か?」
「誰も倒したことのない災厄だぞ」
「だからこそだ」
クラウスは、低く笑った。
「成功すれば、一生遊んで暮らせる報酬を用意する」
ざわめきが広がる。
疑いと興奮が入り混じり、酒場の温度が一段上がった。
ギルドを通さない。
契約書も、保証もない。
あるのは口約束と、破格の金額だけ。
だがそれで十分だった。
クラウスの用意した“魅力的な餌”に惹かれて集まった傭兵たちは次第に数を増やし、数日も経てば街に溢れ始めた。
通りを塞ぐように歩き、視線だけで人を威圧する。
店先では勝手に酒を開け、支払いは後だと笑う。
小さな衝突が、あちこちで起きた。
「なんだァ、その目は?」
「文句があるなら剣を抜け」
一般人は身を縮め、商人は顔を強張らせる。
ギルド職員は、それを遠巻きに見るしかなかった。
規約違反であることは明白だ。
だが正式な依頼ではない以上、強制力を持たない。
しかも相手は帝国の正規軍。介入すれば、余計な火種になる。そうして街の空気が、目に見えて荒れていく。
「嫌な感じだな……」
「早く出て行ってほしいが……」
住民たちは、ひそひそと噂し合う。
だがクラウスの目には、それは別のものに映っていた。
人が集まる。
視線が集まる。
恐れ。
ざわめき。
(ククク、注目されているぞ)
胸の奥が、熱を帯びる。
(俺様の名が、広がっている)
酒場で囁かれる名前。
路地裏で交わされる噂。
――ヒュドラ討伐。
――クラウスが仕切っているらしい。
それだけで、十分だった。
この街が騒がしくなればなるほど、英雄譚は形を持ち始める。
秩序が壊れかけていることにも。
その歪みが、必ず誰かを巻き込むことにも。
彼は、まだ気づいていなかった。
◇
翌朝。
カルデサックの城門前には、出立の準備を整えた一団が集まっていた。
魔の森へ向かうための装備。食料や矢などの消耗品。それらを運ぶ異様なピンク色のトロッコ。必要なものだけを無駄なく揃えた、慣れた手つき。
レグルス隊だった。
隊列は整っているが、空気は張り詰めすぎていない。これから危険地帯へ入るという緊張感はあっても、そこに浮つきはなかった。
マールは結界トロッコのそばで、いつもより静かに周囲を見回していた。
――そのときだ。
わざとらしい足音が、門前の空気を踏み荒らす。
数名の傭兵が、進路を変えて近づいてきた。いや、近づいたというより、 “見せつけるように通った”と言った方が正しい。
「おうおう、今日もガキ連れて遠足か?」
「まだ森で雑魚狩りかよ」
笑い声。
「まぁ逃げ腰の元兵隊さんにはお似合いの仕事かもなァ?」
過去を匂わせるような言い回し。誰に向けたものかは、言うまでもない。
「傭兵は俺ら若いモンに任せて、ジジイは引退したらどうだ?」
「お国のお偉いさんは、俺らみたいな将来有望な若者に期待しているそうだぜ?」
そのとき、一団の後ろから拍子の違う足音が響いた。
道を割るように現れたのは、整えられた軍服と余裕を貼りつけた笑み。クラウスだった。
「相変わらず無表情で愛想のない奴だな。剣より笑顔の練習でもしたらどうだ?」
レグルスは視線を向けない。
「……ちっ、だんまりか。だがいい。俺は偉業を果たすので忙しいからな」
クラウスは、まるで雑談の続きをするかのように言った。
「吟遊詩人が歌うくらいのやつをな。そこにはレグルス――貴様の名が挙がることは無い」
嘲りを含んだ視線が、レグルス隊全体をなぞる。
だが、返事はなかった。
レグルスは、それ以上何も言わない。
視線も合わせない。
完全な無視。
一瞬、クラウスの笑みが歪んだ。
だがすぐに、傭兵たちの方へと視線を戻し、肩をすくめる。
「行くぞ。腰抜けと話していると士気が下がる」
高笑いが起こる。
アウトロー傭兵たちは、勝ち誇ったように去っていった。
その背中を、マールはじっと見つめていた。
胸の奥が、ざわつく。
怒り。
嘲り。
そして――
言葉にならない、不穏な熱。
「……放っておけ。俺達には関係ない」
レグルスは去っていく一団を最後まで見送ると、別の方角へ静かに歩き出した。
――――――――――――
【カルデサックのステーキ屋にて】
鉄板の上で、肉が豪快に焼かれる音が響いている。
脂が弾け、香ばしい匂いが店内に満ちていた。
「相変わらず混んでるな、この店」
アッポロが店内をぐるりと見渡しながら、満足そうに笑う。フリッツが肩をすくめた。
「店主は自分で魔の森に行って肉を仕入れてくるような、変態だけどな」
「変態とは失礼だな」
カウンターの向こうで、ゴリゴリに鍛え上げられた店主が鼻で笑う。
かつて帝国軍に所属していた退役軍人で、前線ではその体躯と豪胆さで名を知られた男だ。
アッポロたち三人にとっても、修羅場の頃から何かと世話になってきた、言ってみれば“古い戦友”の一人だった。
「俺のおかげで旨いステーキが食えるんだから、感謝しやがれ!」
「はいはい。それもアタシが毒肉を解毒してるおかげだけどね!」
奥から、豪快な笑い声。
筋骨隆々の店主とは対照的に、細身の奥さんが顔を出した。
「……相変わらず、良い夫婦ですね」
「まぁな。奥さんが大好きすぎて軍人辞めて辺境に来るぐらいっすから」
「あんなに怖い上官だったのにな」
三人が笑いながら会話しているところへ、巨大な皿がテーブルに叩き置かれた。
「余計なことを言うな!……仕方ないだろ、惚れちまったんだからよ」
若干頬を赤く染めた店主が速足で去っていく。だがアッポロたちの関心は彼にではなく、湯気が上る肉塊たちへと向けられていた。
「「「いただきます!」」」
香ばしい匂いに胃袋を鳴らした三人は、同時にナイフを入れた。
「……やっぱり、うまい!」
アッポロが素直に呟く。他の二人はしゃべることなく、夢中になって頬張っていた。
「なぁ」
フリッツが最後の肉を噛みしめながら、ふと視線を落とした。
「店主も昔と変わったけどさ、隊長もだいぶ変わったよな」
一瞬、空気が変わる。
「たしかに」
ゴックンと肉を飲み込んだアッポロがうなずく。
「昔の隊長はさ、孤高っていうか」
「頼れるのは間違いないですが、近寄るなオーラが半端なかったでしたね」
ドクペインが続ける。
「イケオジだけど、話しかけづらいんすよねぇ~」
フリッツがやれやれと首を振った。
「だけど」
アッポロは、ナイフを置いた。
「マールと出会ってから……完全に“パパ”になった」
「優しい表情も増えましたしね」
ドクペインが淡々と追撃する。
「たまに『マールを立派に育てるにはどうしたらいい?』って本気で悩んでるところ、めっちゃ可愛いっす」とフリッツが笑う。
一瞬の沈黙。
「「「やっぱり今の隊長の方がいいよな」」」
アッポロが、ぽつりと言った。
「いや、正直――嬉しい」
「同感です」
ドクペインが頷く。
「隊長が、あんな顔で笑う日が来るとは思わなかったっすね~。まぁ孤高のままでも、俺たちは付いてったけどな」
フリッツは肩をすくめる。
店主が、ふん、と鼻を鳴らした。
「いい顔してる男は、背負うもんがある」
「家族か」
「仲間か」
奥さんが豪快に笑う。
「なんだっていいさ! とにかく腹いっぱい食って、ちゃーんと家に帰ってきな!」
皿の上の肉は、いつの間にか空になっていた。
三人は顔を見合わせ、自然と笑う。
「まぁ」
「なんだかんだで」
「今が、一番いいよな」
鉄板の音と笑い声が、カルデサックの夜に溶けていった。




